トップ>【オリジナルマット工房】スタッフブログ

【オリジナルマット工房】スタッフブログ

1  2  3  4  5  6  7  8  9  10 >>

2011.10.06  見寺録‐岡寺

久々の見寺録です。参拝した寺院が420ヵ寺を超えたのになかなか進みません。

岡寺(おかでら)  別称龍蓋寺 新義真言宗豊山派 東光山 開基:義淵
奈良県高市郡明日香村大字岡806

西国三十三所観音霊場7番札所

ホームページ: http://www4.kcn.ne.jp/~balance/

 飛鳥には何度行っただろう。ふと、気持ちが飛鳥へ向かわせるときがある。わたしは飛鳥歴史公園駐車場に車を止めて歩きだすのを常としていて、気の向くままぶらぶら歩きだす。そこここに広がる田畑と山の風景は、里山といった趣がある。

もちろん家並、街並もあるが、公共施設以外、大きな建物はほとんどない。無数に点在する、一級の社寺史跡を結んでいく道は、ほとんどが平坦で、田畑の細道を歩けば時間が止まったようだ。

 明日香村役場を東へ行き、突きあたりを右へ曲がると、古い街並が見える。ほどなく行くと、左手に岡寺の道標と鳥居が目に入る。この鳥居をくぐると岡寺への一本道となる。その名の通り、「岡寺」は岡にある寺で、なだらかな登りと緩やかに蛇行した道が続く。

県道の高架下を過ぎたあたりから登りは急になる。坂の茶屋あたりがもっとも急坂で息が切れる。ここを登りきると仁王門に到着する。 境内も起伏に富んでいて、本堂へは石段をに登っていく。山腹に開かれた境内はさほど広くはない。本堂がデカいので余計にそう思うのかもしれない。本堂正面は特に狭く、カメラで本堂の全体を収めようと、引こうにも引くスペースがなかった。

 本尊の如意輪観音はこれまたデカい。塑像ということか石灰土のように白く、粉っぽい。顔だちも見慣れた仏像のそれとは違うように思う。何よりも、多くの如意輪観音に見られる艶かしさがない。六臂で片膝を立てた、あの密教的な怪しさがない。

この白くデカい本尊は、中国やインドの岩窟に刻まれた仏像のようで、木造の建物の中に収まった姿には違和感があった。その存在、空間自体が密教的で怪しいというふうにも思えるのだが。 帰りには、先出の「坂の茶屋」を素見すのもいいだろう。有名人、無名人の無数の色紙が所狭しと貼られている。しかし、この茶屋はいつも開いているとは限らない。ここは怪しいのだ。

お寺について(ホームページなどで得た情報です)
 創建時期は明確ではないが、正倉院文書の天平十二年(740)の記事にはすでにその名を見ることができる。 創始者は義淵僧正と伝えられ、義淵が草壁皇子の宮であ岡宮を天智天皇より賜り、この地に岡寺を開いた。鎌倉以降江戸に至るまで衰退の兆しをみせた時期もあったが、根強い信仰に支えられ今日に至る。 現在の堂塔は近世以降に建てられたものである。三重塔は昭和六十一年(1986)再建。

◎義淵僧正坐像(国宝) 奈良時代     木心乾漆造り
○仁王門(重文) 慶長十七年(1612)
○書院(重文)  寛永二一年(1644)
○如意輪観音坐像(重文) 奈良時代    塑像の現存作品としては最大級。
○銅造菩薩半跏像(重文) 奈良時代  京都国立博物館に寄託。
○木造仏涅槃像(重文) 鎌倉時代。  東京国立博物館に寄託。
○天人文甎(てんにんもんせん)(重文)  京都国立博物館に寄託。

※新義真言宗とは
 古義真言宗に対し、空海を高祖とし覚鑁(カクバン)を宗祖とする真言宗の一派。根来山大伝法院を本山として、世、加持身説法の新義(大日経は加持身の大日如来が説いたとする説)を唱えた。現在、智山派・豊山派などがこの系統。新義派。

 
okadera01.jpg

 ここから岡寺への道へ入る  2009/11/03

 
okadera02.jpg

 仁王門  2009/11/03

 
okadera03.jpg

 境内 2009/11/03

 
okadera04.jpg

境内 2009/11/03

 
okadera05.jpg

 本堂  2009/11/03

 
okadera06.jpg

三重塔 2009/11/03

投稿者 matomscojp | PermaLink | コメント(0) | トラックバック(0)

2011.05.17  見寺録-大野寺

大野寺(おおのでら) 真言宗室生寺派 楊柳山 開基:役行者
奈良県宇陀市室生区大野1680

史跡:弥勒磨崖仏

 平成の合併前、室生村は人口6千人あまりの村だった。宇陀市の中心榛原からは6~7Km。三重県へは4kmあまり。この地区の中心地は近鉄室生口大野駅周辺で、大野寺は駅から南へ300mほどと近い。道を挟んで向かい側にトイレと駐車スペースがある。

 道路脇から少し石段を上って境内に入る。本堂も小さく、2、3の堂宇があるだけで境内は広くない。しだれ桜の大木や萩などがあって、季節には華やいだ姿を見せるだろう。あいにくこのときは2月で、葉を落としたしだれ桜はシャワーのようだった。

 川を挟んだ向こう側に磨崖仏が拝める。遠目でもその大きさがわかるというもの。川を渡ることができそうもないので、近くで足元から眺めることはちょっとできない。よって笠置寺の磨崖仏のように、反りかえるように見上げる、あの圧倒される存在感を感じることはないが、見通しが良く、風景に溶け込んでいるようでもある。

 供物や花が飾られたお堂越しに眺めれば、それは奥行き50mを超えるような巨大な本堂に鎮座する弥勒菩薩であることに気づかされる。こっちがほんとの本堂だろう。

お寺について(ホームページなどで得た情報です)
 大野寺は古くから室生寺の末寺として「室生寺の西門」とよばれてきた寺で、役行者が室生寺とほぼ同時に開創したと伝えられる。天長元年(824)になって空海が一宇を建立し、慈尊院「弥勒寺」と称したが、後に地名から「大野寺」と呼ばれるようになった。 また、境内奧には遙拝(ヨウハイ)所が設けられ、対岸の屏風ケ浦の有名な大野寺磨崖仏を見ることができる。この磨崖仏は興福寺の僧、雅縁が笠置寺の磨崖仏を模して造立する事を発願したといい、承元元年(1207)10月から1年かけて、宋人の石工伊行末(イノユキスエ)とその一派が線刻を施した仏像だ。後光をかたどった光背の中におさめられた弥勒菩薩像の大きさは約14メートル。ほんのすこし頭を傾け、挙げた左手に印を結んだ姿でたたずんでいる。承元3年(1209)の開眼供養には後鳥羽上皇の御幸もあり、盛大に行われたという。

○本尊・地蔵菩薩(重文) 鎌倉時代初期

 
oonodera01.jpg

 境内  2006/02/19

 
oonodera02.jpg

 本堂  2006/02/19

 
oonodera03.jpg

 お堂(遥拝所)から磨崖仏を拝む 2006/02/19

 
oonodera04.jpg

弥勒磨崖仏 2006/02/19

 
oonodera05.jpg

 弥勒磨崖仏  2006/02/19

投稿者 matomscojp | PermaLink | コメント(0) | トラックバック(0)

2010.11.30  見寺録-大蔵寺

大蔵寺( おおくらじ) 龍門真言宗  雲管山 開基:聖徳太子
奈良県宇陀市大宇陀区栗野906

http://shiro.plala.jp/okuraji/default.aspx.html

 宇陀市は奈良県の北東部に位置し、平成の大合併で生まれた市で、宇陀郡の大宇陀町・菟田野町・榛原町・室生村が合併して誕生した。人口は約3万4千人。市役所のある旧榛原町を除けば、山間のこじんまりとした町並みが点在している感じだ。

 大蔵寺は宇陀区にあり、吉野へ抜ける国道370号線から西へ細い枝道を800mほど行く。枝道への分岐点には案内板があるが、車でその道を行くには勇気が必要だ。お寺までどれくらいの距離かもわからず、対向車とのすれ違いは絶対無理で、ひやひやはらはらの道のりだった。一見駐車場らしきものはないが、庫裏を超えたあたりにちょっとしたスペースがあった。他に参拝者はいないようだ。

 庫裏と辨事堂(べんじどう)などのある境内から、石段を上って高台に広がる境内へ出る。薬師堂などの堂宇が建ち並んで壮観。薬師堂の屋根は桧皮葺で反りも中度良い感じ。この反りの感じは、禅宗様の雰囲気があるように思われた。
 奥の方へ進むと、錆びたブランコや鉄棒などの朽ちかけた姿があった。人っ子ひとりいない静寂の中にあって、賑わっていた時の記憶と過ぎ去った時の対比をせずにおれなかった。もっとも古寺巡礼自体、悠久の時の流れを肌で感じることと同義だろう。

 辨事堂では、今でも真言密教の秘法が行われているという。ちょっと覗いてみたい。

お寺について(ホームページなどで得た情報です)
 用明天皇の勅願によって聖徳太子が創建し、その後、空海が真言宗の道場にしたと伝えられる。更に嵯峨天皇の臨幸があって勅願を賜り、勅願所となし、中古には十八箇院の末寺を有して、宇陀、吉野の山間部三名刹(室生寺、吉野山と共に)の一つに数えられる。慶長六年(1601)には寺領550石を加ふされたが、近世に衰微した。
 明治期以降は他真言宗派により包括されていたが大藏寺が継承してきた伝統、真言秘法の普及をめざし、当代管長により復興し「龍門真言宗」となる。ツツジの名所として知られる。

○本堂(重文) 鎌倉時代
○御影堂(重文)
○本尊 薬師如来立像(重文) 秘仏 一木造
○木造天部形立像(重文) 平安時代後期  尊名不明のため「天部形像」と呼ばれている。

ookiraji01.jpg

鐘楼門 2004/11/06

ookiraji02.jpg

薬師堂  2004/11/06

ookiraji03.jpg

御影堂 2004/11/06

ookiraji04.jpg

辨事堂(べんじどう) 2004/11/06

ookiraji05.jpg

庫裏 2004/11/06

投稿者 matomscojp | PermaLink | コメント(0) | トラックバック(0)

2010.09.29  見寺録-王龍寺

王龍寺( おうりゅうじ) 黄檗宗  海龍山 開基:聖武天皇
奈良県奈良市二名町6-1492

奈良市の西の端、生駒市とはすぐ近く、大阪府との県境にも遠からずこのお寺はある。阪奈道路から飛鳥カンツリー倶楽部へ向かう細い道へ入り、ゴルフコースを横切ると左手に山門前の空き地があってそこに車を止めた。
奈良市は南へ向いては平坦な地形が広がるが、東西北は丘陵地が広がっていて、起伏に富んでいる。このお寺も生駒山地の裾野にあって山門から上りとなる。

山門脇にあるのは「不許葷酒入山門」と彫られた石柱。やましいものは何も持っていないのに、山門を潜る時、飛行機に搭乗する、あの威圧感と緊張感を味わった。こういったものが置かれているのは、禅宗の寺院だけかもしれない。少なくとも真言、天台の密教系の寺院では、お供として一升瓶が束になって須弥壇の上に置かれているのをよく見かける。

山門を入ると、そこから本堂まではゴルフ場に囲まれた寺域でありながら、現世を忘れさせるような空間がある。ひんやりとした空気。昼なお暗い原生林のような森と苔むした石畳の参道。程よく壊れた東屋と石段。悪く言えばうらぶれたイメージだが、人工物と自然 のせめぎ合いだと気付けば心が豊かになれる。山門を入ってから堂宇は全く見えない。150mほど参道を行き、最後の石段を登るとようやく本堂の正面に着く。なだらかな屋根に壇がついた錣葺(しころぶき)屋根と丸窓の禅宗様の建物が印象的だ。

本堂右手奥に墓地が広がっていた。無縁墓となった墓石がうず高く積まれている中に、真新しいものがちらほらあった。どういう事情があったのだろうか。気の毒な気持ちになる 。

お寺について(ホームページなどで得た情報です)
 海瀧山王龍寺と号する。北倭の古刹で聖武天皇の勅願により建立と伝えられ、一時は坊千軒を数え隆盛を誇ったが、盛衰廃絶の時期があった。貞享二年(1685)本多下野守忠平公が大和郡山11万石の城主として入部、元禄二年(1689)古址を復興王龍寺を創建、黄檗宗開山隠元禅師の孫弟子僧梅谷を開山にして菩提寺とした。
 本尊は十一面観音像で摩崖仏。そこには、「建武三年(1336)」の銘が刻まれてい る。本坊近くに樹齢300年の「ヤマモモ」の大樹がある。昭和五十四年(1979)奈良市指定文化財に指定されている。

 
ouryuji201.jpg

山門  2009/02/15

 
ouryuji202.jpg

参道  2009/02/15

ouryuji203.jpg

参道 2009/02/15

ouryuji204.jpg

本堂 2009/02/15

ouryuji205.jpg

本堂  2009/02/15

投稿者 matomscojp | PermaLink | コメント(0) | トラックバック(0)

2010.08.19  見寺録-横蔵寺

横蔵寺(おうぞうじ)  曹洞宗  道林山 開基:法道
兵庫県加古川市平岡町新在家900

播磨西国三十三箇所第29番

 加古川市は、加古川が播磨灘に注ぐ下流に位置し、東播磨地方の中核をなしている。人口は27万人弱。臨海部の重化学工業地帯と、北部の田園地帯とはっきりと色分けされている。播磨平野の中にあって、降水量の少ない瀬戸内気候で水資源が少ないのだろうか、加古川市周辺一帯、ため池が非常に多い。
 利便性では、交通の便が良く、大阪市までは電車でおよそ1時間の距離だという。

 横蔵寺へは、加古川バイパス、加古川東ランプで下りて北東に100m、東加古川病院の隣にある。駐車場も広く、無料で停められた。
 まず目を引いたのは、駐車場手前の墓地だった。きっちり区画が整理された見慣れた墓地の形態をしていない。低く盛られた土の上に墓石が乗っている。その土も特別な土ではなく、周りの土をかき集めてできているようだ。墓石も見慣れたものよりずいぶんと小さく、戒名などを刻んだ墓碑も見当たらない。かなり古い集合墓地の形態のように思えた。

 参道の右側、山門前にはきれいに手入れされた日本庭園がある。凝った彫刻が施された山門の扉を見て本堂前に立つ。木々が茂って見通しがあまり効かない。ちょっと落ち着かない感じだ。正面にドンと本堂が見えたら、こじんまりとした山門内の印象もかなり変わるだろう。

 開基の法道という人は、インドから中国を経て、道教と共に渡来したといわれる仙人で、この辺り播磨地域一帯の多くのお寺に、開基、開山として名を残している。役行者然り、本来は仏教の僧ではなかった人物が深くかかわっている寺院は何処か怪しさを持っている。この後何度出会えるか楽しみの仙人である。

お寺について(ホームページなどで得た情報です)
 法道仙人の開基で、宇多天皇譲位の後、出家して法皇となられてからは法皇の潜邸として栄えたという。広大な寺領を誇ったが、戦国時代に衰微。その後、秀吉が三木城攻めの際ことごとく炎上し、1堂1坊残すのみとなった。この時、観音は宙を飛んで水葦村にある堂に難を逃れたとの伝承がある。元禄年間、真言宗から曹洞宗に改宗した。 十一面千手千眼観音は、鎌倉時代の仏師、運慶・湛慶父子の合作と言われている秘仏で、25年毎に開帳される。像の半身を互いに持ち、まだ見ぬ父と息子が一目会いたいと旅に出た運慶と湛慶。偶然出会えて、互いの半身像を合わせたところ、見事に一体の千手観音になったと伝えられる。

  ouzouji01.jpg

参道  2009/08/16

ouzouji02.jpg

山門  2009/08/16

ouzouji03.jpg

日本庭園 2009/08/16

ouzouji04.jpg

本堂 2009/08/16

ouzouji05.jpg

墓地  2009/08/16

投稿者 matomscojp | PermaLink | コメント(0) | トラックバック(0)
1  2  3  4  5  6  7  8  9  10 >>