【オリジナルマット工房】スタッフブログ
2010.03.31 見寺録-石薬師寺
石薬師寺(いしやくしじ) 真言宗東寺派 高富山 開基:泰澄
三重県鈴鹿市石薬師町1
西国薬師四十九霊場33番 三重四国八十八箇所番外
鈴鹿七福神「恵比寿」
三重県鈴鹿市は人口約20万人、鈴鹿サーキットで有名。本田技研工業が工場を置き、工業都市のイメージが濃い。市のホームページにはスペイン語とポルトガル語のページもあり、南米からの研修者や労働者が多いのではないかと思わせる。
このお寺は、国道1号線のすぐ近くにあるが、1号線がバイパスのように整備されているため、小さな枝道に入る交差点は少なく、このお寺へも大回りして行った。駐車場は4.5台程度が止められる空き地のような所。参道は短い。総門を入るとさほど広くはないが、よく整備された境内が広がる。灯籠や堂宇が所狭しと建っていて、ちょっと窮屈な感じがする。
秘仏の石薬師は見られなかったが、広重の浮世絵に描かれた石薬師寺を知ることが出来てよかった。
お寺について(ホームページなどで得た情報です)
神亀三年(726)泰澄大師が当地の森の中で一巨石の出現に出会い、薬師如来が衆生利益のため示現されたものと悟り、一草庵を設け恭敬供養なられた。これが当山の開創である。弘仁三年(812)弘法大師が自ら薬師如来を刻み、開眼供養をなされた。これにより人々の信仰は高まり、嵯峨天皇は勅願所とし、荘厳広大な大寺院を建立され、高富山西福寺瑠璃光院と号し四方崇敬の精舎と仰がれる程であった。
戦国の戦火のあと神戸城主一柳監物により、寛永六年(1629)再建された。建物の規模は桁行三間、梁間四間、寄棟造。本瓦葺きで一間の向拝がつく。市内で最古の寺院建築。
石仏は花崗岩で像高190cm。寺伝によれば、弘法大師が地面生え抜きの石に刻んだという。浅い線彫り、ほおはゆたかで、薬師仏として親しまれてきた。平素は秘仏であるが、十二月二十日の「おすす払い」には、洗い清められる。平安後期の作。
東海道五十三次の宿場の一つで、広重にも描かれる。国道一号線沿いのこぢんまりとした寺。
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総門 2009/03/07 |
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境内 2009/03/07 |
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本堂 2009/03/07 |
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境内 2009/03/07 |
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広重 東海道五十三次 2009/03/07 |
2010.03.30 見寺録-石馬寺
石馬寺(いしばじ) 臨済宗妙心寺派 御都繖山 開基:聖徳太子
滋賀県東近江市五個荘石馬寺町823
湖国十一面観音第9番 近江湖東二十七名刹霊場第16番
役行者大菩薩霊場 聖徳太子霊跡
http://www.eonet.ne.jp/~ishibaji/
石塔寺と同じく、東近江市にある。このまちは平成の大合併で生まれた市で、7つの自治体が合体して誕生した。石馬寺はかつての五個荘町にあった。
このお寺は、近江平野に浮かぶ島のごとく、小高い山の中腹にある。この繖(きぬがさ)山と呼ばれる一帯は、平地に忽然と現れる山々が印象的で、そこには決まって古社寺が鎮座しているようだ。琵琶湖に流れ込む川が、土砂を運び、平地を造った。それが今の肥沃な近江平野になった。昔から暮らしやすい土地だっただろう。近くの山城、安土城跡もかつては三方を琵琶湖に囲まれ、防衛に適した所だったというが、今は真っ平らな平野に囲まれている。
このお寺には、いつものごとく車で行った。かつての山門跡に4、5台分しかない駐車スペースを発見し、運良く止められた。他にもあったかどうか、わからない。参道は、その山門跡から、長い石段が続く。自然石を敷き並べたような石段で、歩きにくいが、手すりが整備してあったのは親切だ。
参拝客は私一人だったけど、書院のインターホンを押して、参拝の旨を告げた。ご婦人が現れ、収蔵庫の鍵を開けて下さった。わざわざ私一人のために、手を休め、奥から出て来て・・・・。拝観料はもちろんお支払いしましたが、これはありがたいことです。ありがたい気持ちはこうやって覚えてる。
収蔵庫の中は所狭しと、古仏像が並ぶが、なんといっても印象に残ったのは、大威徳明王牛上像だ。三面六ぴの姿は異形。まさに異形。足まで六ぴはなかなか見られない造形だ。感動しました。
お寺について(ホームページなどで得た情報です)
繖(きぬがさ)山の山中にある石馬寺は、推古二年(594)徳太子がこの山麓に馬をつなぎ、山上に霊地を探して下山すると馬が石と化して池に沈んだ(現在の石段登り口に沈む駿馬化石)というところから寺号が付けられた。
永禄十一年(1568)信長が佐々木氏を攻めた時、戦禍を受け悉く灰燼に帰す。その後、慶長八年、徳川氏が復興した。
創建以後、法相宗、天台宗と転宗し、正保元年(1644)仙台瑞厳寺の開祖、雲居希贋国師を中興開山とし臨済宗となる。
○十一面観音菩薩立像<2躯>(重文) 平安時代
○二天王立像<4躯>(重文) 平安時代
○大威徳明王牛上像(重文) 平安時代
○阿弥陀如来坐像(重文) 平安時代
○役行者像・前鬼・後鬼像<3躯>(重文) 鎌倉時代
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大門跡 2006/10/22 |
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参道 2006/10/22 |
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参道 2006/10/22 |
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本堂 2006/10/22 |
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書院と庭 2006/10/22 |
2010.03.26 見寺録-石塔寺
石塔寺(いしどうじ) 天台宗 阿育王山 開基:聖徳太子
滋賀県東近江市石塔町860
近江西国三十三箇所22番
蒲生三十三観音27番(観音堂)・28番(石塔寺)
東近江市は平成の大合併で生まれた市で、7つの自治体が合体して誕生した。石塔寺はかつての蒲生町にあった。滋賀県南部、西部地方は朝鮮半島系、特に百済系渡来人の遺構が数多く残っていて、石塔寺もその中のひとつ。
このお寺は、名神高速道路八日市インターを下りて車で約10分、名神八日市カントリークラブを横切ってすぐのところにある。ここには3回訪れている。最初に訪れた1999年12月、大阪は冬晴れで、申し分のない天気に勇んで石塔時を目指したものの、湖東地方は時雨れていた。拝観料を払うときおばさんに聞いてみると、冬の湖東は琵琶湖と鈴鹿山脈の影響で日本海側の気候に近いとのことであった。
ここは参道から一見したところ、右手にある本堂以外目立った堂宇がない。参道からまっすぐ伸びる石段が美しい。拝観料を払って、さて本堂へ先に参拝するか、目の前の長く急な石段を上ろうかと一瞬迷うが、いつも足は自然と石段に向かう。息が上がるのを我慢して上りきったところに開ける空間は、そびえる三重の宝塔の周りに無数の石仏石塔が配置されている異様な風景で、形容しがたい感動がある。歴史的価値のある阿育王塔もさることながら、無数にある石仏石塔群には本当に圧倒される。右手になだらかに下る斜面にも途切れることなく続いている。辺りの松林を一周する小道の脇にも石仏が連なっている。
化野念仏寺でも感じたことだが、どれほどの人が何に対して石を刻むのか。死への恐れか憧れか。人の情念とは信仰とは何だろう。それがここでは量として、数として感じることができる。
お寺について(ホームページなどで得た情報です)
聖徳太子が近江の国に四十八箇寺の伽藍を建立した際、当寺を本願成就寺と名付けたが、400年後、寛弘三年(1006)飛鳥時代より埋没していた仏舎利を納めた阿育王(アショカオウ)塔が発掘されると、新たに七道伽藍を建て改め、石塔寺と称した。
石塔は、実際には奈良時代前期(7世紀)頃に、朝鮮半島系の渡来人によって建立されたとみるのが通説である。この石塔は、日本各地にある中世以前の石塔とは全く異なった様式をもつものであり、朝鮮半島の古代の石造物に類似している。湖東地区が渡来人と関係の深い土地であることは、『日本書紀』に天智天皇八年(669)、百済(当時すでに滅亡していた)からの渡来人700名余を近江国蒲生野(滋賀県蒲生郡あたり)へ移住させた旨の記述があることからも裏付けられ、石塔寺の三重石塔も百済系の渡来人によって建立されたものであるとの見方が一般的である。
鎌倉時代には、三重石塔(伝・阿育王塔)の周りの境内に、五輪塔や石仏が多数奉納されるなど、以後、多くの人々の信仰を集め、石塔石仏を奉納されるようになる。時を重ねて無数の数(四万八千)になるが、現在の整然たる姿は昭和になってからである。
○阿育王塔(重文) 飛鳥時代
○石造宝塔(重文) 正安四年(1302)
○石造五輪塔2基(重文) 嘉元二年(1304)および貞和五年(1349)
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参道 2008/11/29 |
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山門 2008/11/29 |
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本堂 2002/08/31 |
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阿育王塔 2008/11/29 |
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石塔、石仏 2008/11/29 |
2010.03.25 お知らせ
ご注文いただいた方で、こちらからのメールが届いていない方はいませんか?原画や、原案、イラストなど、イメージをこちらに送って下さい。オリジナルマット工房でラグマット用にデザインさせていただきます。デザイン料はいただきません。
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〒581-0004 大阪府八尾市東本町2-3-36
(有)マットプロジェクト
2010.03.25 見寺録-石観世音
石観世音(いしかんぜおん) 曹洞宗 大悲山 開基:空海
福井県三方上中郡若狭町三方22-1
北陸三十三観音霊場7番札所
福井県若桜町は若狭湾の中程に位置し、三方五湖の景勝地が有名。小学生の頃、一度いったことがあって、レインボーラインからの絶景が記憶に残っている。2005年ラムサール条約に登録された。淡水湖から汽水湖、海水湖まで5つの湖にはそれぞれはっきりとした特徴があるという。
このお寺は三方五湖の東南に位置し、国道27号線から東に入る細道を上ると参道に出会う。右手に空き地があって、そこの車を止めた。本堂まで行ってわかったことだが、本来の駐車場は本堂脇にあった。でもここに車を止めると、参道部分を味わうことが出来ない。空き地に止めて正解だった。
参道は石段と石畳の道が段々と続く。少し神社のような雰囲気。禅宗の寺院とは思えないほど、民間信仰が色濃く、 祈願奉納の参拝者が絶えないようだった。特に、御手足堂に奉納された手形、足形は圧倒される量で、お寺が奉納用に用意するものから、オリジナルなもの、はてはギブスまで様々だ。何十年も経ったような古いものもある。手足に病のある人々の、苦しみから逃れたい思いや願いが一つひとつに込められている。それがここに集中していて息をのんでしまう。それどころか息苦しささえ覚る。写真を撮るのは憚られた。
お寺について(ホームページなどで得た情報です)
創建は延暦年間と伝える。本尊は弘法大師が一晩のうちに作り上げたといわれる観世音菩薩像。この観音像には右手がなく、弘法大師が、朝を告げる鶏の声を聞いて右手だけを刻み残して去ったともいわれている。手足の病気やケガにご利益があると信じられ、年間を通して約10万人の参拝者が訪れる。この片手観音は33年に一度開帳され、ふだんでは見ることが出来ない秘仏として大切に安置されている。
現在の本堂は明治32年に再建されたものである。
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参道 2008/01/06 |
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参道 2008/01/06 |
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参道 2008/01/06 |
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本堂 2008/01/06 |
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境内 2007/11/24 |
2010.03.24 見寺録-斑鳩寺
斑鳩寺(いかるがでら) 天台宗 開基:聖徳太子
兵庫県揖保郡太子町鵤709
新西国三十三箇所32番札所 西国薬師四十九霊場23番
播州薬師霊場18番 聖徳太子霊跡28番
ここ太子町は、町名が示すように聖徳太子と縁が深く、斑鳩寺にいたっては、決定的に法隆寺と深淵のつながりを示している。私の住む八尾市には、中の太子といわれる大聖勝軍寺とうお寺があって、太子信仰で知られているが、この斑鳩寺はその代表格だろう。
近年、聖徳太子は実在しなかったという説が、史実として確からしいという。信仰とどう関わってくるんだろう。
参道は現在はなかったように思う。仁王門には仁王像が安置されているが、その造形が独特である。頭と胴体のバランスがかつて見たどの仁王像とも違う。頭でっかちで、 胴の部分もたくましさに欠ける。一言で言えばリアリティーがない。筋肉の付き方など滑稽なほど稚拙。忘れられない仁王さんだ。
境内は適度に広く、三重塔が威厳を放つ。この三重塔はデカくて力強い。約25mもあるという。三重塔では薬師寺を除けば日本最大級か。
このお寺には他では見られないおもしろい建物がある。それが聖徳殿にくっつく奥殿だ。この奥殿は大正五年(1916)に建てられ、法隆寺の八角円堂、夢殿を模していることは明白。無理矢理聖徳殿に合体させたようでおもしろい。内部は一般に公開されていないようだが、チャンスがあれば是非見てみたい。
お寺について(ホームページなどで得た情報です)
推古天皇十四年(606)、35歳の聖徳太子は天皇に請われ、三日間にわたり勝鬘経を講じたといわれている。天皇はその妙味に感動し、賞として聖徳太子に対し播磨国揖保郡の土地360町歩を与えたという。
聖徳太子は当時住んでいた大和国斑鳩宮からこの地に来て斑鳩莊と名付け、伽藍を建設したと伝えられており、これが、斑鳩寺の創始とされている。
かつては、七堂伽藍をならべた大寺で壮麗を極めていたが、天文十年(1541)に赤松・山名の争乱により尽く焼失した。その後、赤松氏などの発願で円勝寺の昌仙法印によって漸次再建された。 当寺は創建から約千年間は法隆寺の支院であったが、火災再建後は昌仙法印が天台宗の僧あったため、天台宗の寺院となる。
○三重塔(重文) 永禄八年(1565)
○釈迦如来坐像・薬師如来坐像・如意輪観音坐像(重文) 室町時代
○木造日光・月光菩薩立像 (重文)
○木造十二神将立像 8躯 (重文)
○紺紙金泥釈迦三尊十六羅漢像 5幅(重文)
○絹本著色聖徳太子勝鬘経講讃図 (重文)
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仁王門 2007/11/24 |
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仁王 2010/03/22 |
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本堂 2007/11/24 |
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三重塔 2007/11/24 |
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奥殿 2007/11/24 |
2010.03.18 見寺録-医王寺
医王寺(いおうじ) 高野山真言宗 国分山 開基:行基
石川県加賀市山中温泉薬師町リ-1
北陸三十六不動霊場第27番 奥の細道札所
日本三薬師のひとつ。
このお寺は、加賀温泉郷の一つ山中温泉の街を見下ろす高台に立つ。山中温泉は平安時代からその存在が知られ、鎌倉期の武将や、松尾芭蕉も湯治に訪れたという。 また九谷焼の元祖、古九谷の産地であった。
参道は、温泉街から急な階段を上って国道の下をくぐっているが、車で来た私は駐車場がなかったので国道横に止めてしまい、その部分を体験できていない。もったいないが、参道の途中から参入する。
そこから本堂までは一直線に続く。まず最初に目にするのは甘露水なる湧き水。甘露水といえば、十一面観音などが持つ水瓶(すいびょう)の中に入っているとされる御清水。更に進むと、途中、いろいろな石仏が参拝者を迎える。 行場のようなところに不動明王が鎮座し、密教系の寺院であることがわかる。 本堂は近年建立されたもので、不思議な造形をしている。密教系の怪しさがある。
お寺について(ホームページなどで得た情報です)
山中温泉にある行基開基と伝わる古刹。山中温泉を発見した行基は、国分寺を建立、薬師の尊像を安置したと伝えられている。鎌倉期に能登国鳳至郡大屋荘の地頭長谷部信連が再興、行基作であろう薬師如来像を掘り出し、国分山医王寺を創建した。
多宝塔など現在の建物は昭和初年の大火で消失後、昭和三十三年に再建されたもの。京都の蛸薬師、出雲の一畑薬師と並び日本三薬師のひとつ。通称、お薬師さん。
○陶製金剛童子立像(重文)
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参道 2009/04/11 |
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滝不動 2009/04/11 |
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地蔵 2009/04/11 |
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本堂 2009/04/11 |
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本堂 2009/04/11 |
2010.03.17 見寺録-安楽寺
「あ」は一応これで終わりです。9ヵ寺ありました。
安楽寺(あんらくじ) 高野山真言宗 葛城山 開基:聖徳太子
奈良県御所市大字稲宿1080
奈良県御所市(ごせし)は、葛城山麓に広がる町で神話の時代から重要な位置を占めている。4、5世紀のヤマト政権の時、葛城氏と巨勢氏は天皇家に仕える有力な豪族として栄えていたという。
このお寺は、飛鳥から吉野、和歌山へ至る街道の一つ、巨勢の道にある。持統天皇はこの道を通り、30数回に亘って吉野へ行幸したという。現在もお寺のある小さな集落は、舗装された道と、護岸整備された小川を除けば、往時とほとんど変わっていないのではないかと思う。お寺に往時の面影はないが、当時の唯一の遺構である重文指定の塔婆が残っている。塔婆といっても、この場合墓地に立っている細長い木の板のことではなく、塔状の建物のこと。
本堂からは全く見えないので、ぼんやりしているとその存在に気付かない。本堂までの道標に、塔婆のある方向へ矢印が出ているので見逃さないように。間違って車で集落にはいると、その道の細さに神経を使い、道標を見逃してしまう。事実、私はそれをやってしまい、このブログを書くためにもう一度行って写真を撮ってくる羽目になった。
この塔婆と同じようなものに、観心寺の建掛塔がある。観心寺のは三重塔を建てようとして、その途中で止まったもの。こちらは三重塔の屋根三層が朽ち落ちて廃屋同然になっていたものを、現在のような形にしたもの。屋根の葺き方は違うが、よく似ている。
お寺について(ホームページなどで得た情報です)
聖徳太子草創により、葛城寺として土豪葛城臣に賜いて建立されたと伝える。開基当初は三宇の伽藍に、五院坊を配して葛城古道の東域にその威容と宗勢を誇ったが、秀吉の検地、江戸中期の大火、永年にわたる破損や腐朽により、大半を失う。
現在残る塔婆は、三重塔の上部二層が零落して最下層が残ったもので、唯一当時の面影を残す。本堂、庫裏は昭和六十年再建された。
○塔婆(重文) 鎌倉時代末 平成二年解体修理
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本堂 2007/02/11 |
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本堂 2007/02/11 |
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本堂 2007/02/11 |
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塔婆 2010/03/17 |
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塔婆 2010/03/17 |
2010.03.16 見寺記-安養寺
安養寺(あんようじ) 真言宗泉涌寺派 東方山 開基:良弁
滋賀県栗東市安養寺88
http://www.tohozan-anyouji.com/
滋賀県栗東市は、金勝持と中央競馬会のトレーニングセンターがあることくらいしか知らない。
このお寺は、名神高速道路の直ぐ南にある。車の喧騒を心配したが、道路の防音が行き届いているようで気になるほどではなかった。コンクリート舗装の味気ない参道があって、総門をくぐると結構広い境内が広がる。護摩壇のある広場を取り囲むように、また、奥の方には八十八ヶ所巡りなどがあり、いろいろな石像が配置されてにぎやかである。
この日は誰も参拝者を見かけなかった。行事以外では参拝者も少ないのかも知れない。このお寺で特筆すべきは仏像を多数お祀りしていることだろう。残念ながら拝観できなかった。ふらりと来て拝観できるようにはなっていないようだった。
お寺について(ホームページなどで得た情報です)
天平十二年(740)聖武天皇の勅願により、金勝寺25別院の一つとして、良弁僧正が開基し、当初は東方瑠璃山安養寺としていた。承和元年(834)空海が中興し、伽藍造立の本願は時の太政大臣藤原良房から賜る。
弘長三年(1263)亀山天皇が伽藍を再建、弘法大師作の愛染明王を賜り、勅願寺となる。長享元年(1487)足利九代将軍義尚、六角高頼討伐のため、陣所とする。しかし、兵火に罹り堂宇を消失。その後大永年間に復興した。元亀元年(1570)織田信長の兵火のため、本尊の薬師三尊を除いて、すべて焼失する。
貞享元年(1684)戒山慧堅律師、旧跡の荒廃を惜しみ、仏殿僧舎を再建建立。十二神将像、日光菩薩・月光菩薩立像など多数の仏像を有する。
○薬師如来坐像(重文) 鎌倉時代
○石造十三重塔 (重文)
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山門 2009/11/21 |
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参道 2009/11/21 |
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表門 2009/11/21 |
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表門 2009/11/21 |
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薬師堂 2009/11/21 |
2010.03.15 見寺録-安国寺
安国寺(あんこくじ) 臨済宗東福寺派 景徳山 開基:
京都府綾部市安国寺町寺ノ段1
京都府綾部市は、グンゼ発祥の地。戦前の宗教弾圧事件、大本教があること位しか私は知らない。足利尊氏誕生の地とは、ここへ来て初めて知った。あ、そういえば黒谷和紙もあった。学生時代、版画の先生が黒谷和紙を愛用していて、その良さを語っていたが忘れてしまった。
このお寺は、市街地からずっと離れ、国道沿いに田畑が続き、小さな集落が点在する中にある。アスファルトの細道から石段の参道が急に始まる。登り切って山門をくぐると、さて、どんな境内が広がっているのか、このイントロが何ともいえない。やっぱりお寺は、音楽だなーとつくづく思う。
境内はけっこう広い。正面の茅葺きの建物が仏殿。とってもいい感じ。内部の床は敷瓦で、窓は花頭窓。禅宗様の特徴を見ることが出来る。屋根に反りがないのは茅葺きのためだろうか。左にある庫裏を含め、茅葺きの古い民家といった趣がある。京都府の田舎には茅葺きの建物がよく残っていると思う。有名な美山の集落しかり。飛騨の合掌造りほど建物の規模が大きくないが、トタンで屋根を覆わず、茅を葺き替えて維持している。立派なことです。
お寺について(ホームページなどで得た情報です)
正暦四年(993)頃、恵心僧都62才の作である子安地蔵菩薩を安置して光福寺としたのが創まりで、上杉重房の外護を受け上杉家の氏寺として発展していった。上杉頼重の息女清子が足利貞氏と結ばれ当山の地蔵菩薩に祈願すること7日、行満る暁、星を呑むとの夢をみて懐妊し、嘉元三年(1305)上杉氏所領内の光福寺々内塔頭の常光寺に於いて尊氏公を安産した。
その後は足利家からの帰依も受けるようになり、南北朝のはじめ足利尊氏が弟直義とともに夢窓国師の勧めに従い、国土安穏泰祈願並びに元弘以来の戦死者供養のため、暦応二年(1339)全国二島六十六ヶ国に安国寺を建立する。暦応四年三月(1341)円派の仏師豪円作の釈迦三尊坐像を本尊として光福寺を改称し、丹波の安国寺を創立する。 寺は享保二十年(1735)、山崩れのため損壊したが、寛保三年(1743)に再建されている。
○本尊釈迦三尊坐像(重文) 室町時代
○木像地蔵菩薩半跏像(重文) 平安時代初期
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山門 2008/10/25 |
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山門 2008/10/25 |
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仏殿 2008/10/25 |
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庫裏 2008/10/25 |
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庭園 2008/10/25 |
2010.03.13 見寺録-安岡寺
安岡寺(あんこうじ) 単立(天台宗系) 南山 開基:開成皇子
大阪府高槻市浦堂本町41-1
新西国三十三箇所客番 近畿三十六不動尊霊場第12番
摂津国三十三箇所第25番
このお寺への参拝手順を間違った。車で来たものだから、駐車場へ止めると、西にあいた山門から入ることになる。これでは南にある総門から、ゆっくりと参道を登って本堂にお参りするという醍醐味が失われてしまう。参道もお寺参りの重要な演出になる。時系列で味わう芸術には、イントロというか導入部分があって、徐々に高まっていき、主題が現れ、感動を与える。お寺も同じだろう。いきなり横の方から主題に出会っても、感動が高まらない。完全に失敗した。
境内は広くなく、見るべき伽藍も少ないが、不動明王の前に広がる護摩焚き場が妙に広い。盛大に護摩を焚き、空に火炎がとどくがごとく、密教の行事が行われるんだろうと想像した。
このお寺は、市街地にぽつんと残された丘の様な低い山の中腹にあるので、見晴らしのきくところか見ると、何処彼処も建物しか見えない。
お寺について(ホームページなどで得た情報です)
この寺は、第49代光仁天皇の子で第50代桓武天皇の兄にあたる開成皇子によって宝亀六年(775)に創建されたと伝えられ、開成皇子が自ら一刀三礼の観音像を刻んで本尊とし、安置したといわれている。 戦国時代に高山右近の兵火に遭い荒廃したようであるが、17世紀後半の寛文年間に復興され、4塔頭をもつ大きな寺となり大いに栄えたという。しかしながら、明治時代の廃仏毀釈の法難により現在の規模になったといわれている。 安岡寺はその「安岡寺」という名より、高槻観音という名称で親しまれており、神峯山寺を北山観音というのに対し、安岡寺は南山観音とも呼ばれ、小高い山全体が、昔から観音霊地として信仰されている。また2月1日、大阪摂津の「節分」のさきがけとして大峰山桜本坊の行者による柴燈大護摩供が厳修され、多くの参拝者でにぎわう。
○十一面千手観音菩薩坐像(重文) 平安時代初期
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山門 2007/07/22 |
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本堂 2007/07/22 |
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境内 2007/07/22 |
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不動明王 2007/07/22 |
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境内から南方を見る 2007/07/22 |
2010.03.12 見寺録-安倍文殊院
安倍文殊院(あべもんじゅいん) 華厳宗 安部山 開基:安倍倉梯麻呂
奈良県桜井市安倍641
大和十三仏霊場3番 文殊菩薩 大和ぼけ封じ霊場
大和七福八宝めぐり 弁財天 神仏霊場巡拝の道 第34番
我が家の初詣は、ここ15年ほど桜井市の大神神社に詣っている。少し前まで、近鉄電車の初詣切符には、大神神社と並んで阿倍文殊院があって、祈願寺としてよく知られている。
安倍晴明の縁の地として、陰陽道に関心のある人は訪れるだろうし、三大文殊ということから知恵の神さんとして合格祈願に訪れる人もいる。とにかく、祈願、祈願でお願いする人が訪れるお寺。 絵馬の数でそのパワーが偲ばれる。でも、神仏分離で育った私には、お願いするのは神社という観念があって、ちょっと異質な感じがする。
お寺にもいろいろあるなーと、おもしろくなる。禅寺のように修行者や檀家に限って救われるところもあれば、広く人々の娑婆の苦行を救おうとするお寺。阿倍文殊院は後者に属するが、人々を救うにはお金がいるようで、ついに電子マネーでお布施が出来るようになったという。このシステムが参拝者の要求で実現したとしたら、まっとうなお寺だと思う。そうでないとしたら、ちょっといやだ。
お寺について(ホームページなどで得た情報です)
孝徳天皇の勅願によって大化の改新時(645)に、左大臣となった安倍梯麻呂(あべのくらはしまろ)が阿部一族の宇治寺として建立したのが「安倍山崇敬寺文殊院」(安倍寺)である。しかし一般的には古来より、日本三大文殊(京都府・天橋立切戸の文殊、山形県・奥州亀岡の文殊)の第一霊場「大和安倍の文殊さん」として名高い。
永禄六年(1563)兵火に会い一山ほとんど灰燼に帰するが、その後寛文五年(1665)に至って現在に残る本堂(文殊堂)と礼堂を再建された。
○文殊菩薩像(重文) 鎌倉時代 像高7mの巨像、名仏師快慶の作
○白山神社本殿(重文) 室町時代
2007年(平成19年)4月、全国の寺社仏閣では初めて電子マネーのEdy、iD、PiTaPa及びQUICPayを導入した。
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山門 2005/12/30 |
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参道 2005/12/30 |
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本堂 2005/12/30 |
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本堂 2005/12/30 |
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仲麻呂堂 2005/12/30 |
2010.03.11 見寺録-穴太寺
穴太寺(あなおじ) 天台宗 菩提山 開基:大伴古麻呂
京都府亀岡市曽我部町穴太東辻46
西国三十三箇所21番札所
亀岡は京都市の西北にあり京都市と隣接している。古代から丹波、丹後地方との交通の要衝として、近年は京都のベットタウンとして栄え、特にJR山陰線が、複線電化されてから一層発展している。このお寺は市街地の西、のどかな田園地帯にあり、まだここまでは都市化の波が及んでないようだ。
西国観音霊場の札所となっているお寺は、巡礼者がバスで大挙訪れていたりする。この日もその団体に出会い、カメラのシャッターを押すのを頼まれた。どうでもいいことだが、私はシャッターを押すのを頼まれることが多いように思う。シャッターを押す前の一言「ハイ、チーズ」をいつか「うんこくさい」に変えてやろうと思う。ほんとうにどうでもいい。
参道という感じではない道に駐車場と土産物屋がちらほらあるだけ。境内はさほど広くはなく、灯籠がぼんぼん立っていてちょっと窮屈な感じ。本堂は典型的な入母屋造り本瓦葺きの和風建築で、どっしりっとしている。仁王門を入って左手に多宝塔がある。天台、真言などの密教系の寺院には塔がないと損をしたような気になる。よってここは◎。ほとんどの建物が江戸時代の再建というが、古寺の雰囲気が色濃くある。
お寺について(ホームページなどで得た情報です)
奈良時代末期、慶雲二年(705)の文武天皇の御世に大伴古磨によって創立されたと伝える。建立の後再三の兵火により焼失し、現在の堂宇は徳川末期に再建されたもので、本尊の木彫聖観音立像は、仏師感世の作で秘仏として本堂厨子内に祀られている。また、本堂内の室町時代の作といわれる木彫涅槃像は、病魔平癒の「なで佛」様として名高い。 毎年8月9日は書院と庭園とともに数ある寺宝の一部を公開している。庭園は本堂や多宝塔の東部を借景にしており、江戸中期から末期にかけての手法をよく表現した名園のひとつである。
○木造聖観音立像 鎌倉時代 1968年11月に盗難に遭い、未発見。
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遠景 2006/04/23 |
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仁王門 2006/04/23 |
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本堂 2006/04/23 |
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本堂 2006/04/23 |
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多宝塔 2006/04/23 |
2010.03.10 見寺録-化野念仏寺
化野念仏寺(あだしのねんぶつじ) 浄土宗 華西山 開基:空海
京都市右京区嵯峨鳥居本化野町17
京都嵯峨の界隈では有名なお寺になると思います。土産物屋が軒を並べる細い車道から、いい感じで斜めに参道の石段が続く。拝観料を払って進むと石仏郡が右手に現れ、左に折れるとよく知られたあの無数の石仏に出会う。想像していたより広くない・・・。 風化して仏がわからないものも多い。角が取れて氷が溶けるように丸くなっている。ここの石仏は無縁仏が形になって残ったもの。一体の石仏が、一人を供養しているとは限らない。供養されず死んでいった人も多いだろうに。
ここはまるで墓のお寺。新旧取り混ぜ、墓石だらけ。死んでもこうやって供養されれば幸いか。人とのつながりがずっと続くということか。 そう思いたいということだろうと私は思う。合掌。
お寺について(ホームページなどで得た情報です)
弘仁二年(811)、空海が五智山如来寺を建立し、野ざらしになっていた遺骸を埋葬したのに始まるとされる。法然が念仏道場を開き、念仏寺となる。本尊は阿弥陀如来像(寺伝に湛慶作というが実際の作者は不明)、本堂は江戸時代の正徳二年(1712)に寂道により再建されたものである。
この地は古来より葬送の地で、初めは風葬であったが、後世土葬となり人々が石仏を奉り、永遠の別離を悲しんだ所である。境内の約8000体という夥しい数の石仏・石塔は、明治三六年(1903)頃に、化野に散在していた多くの無縁仏を掘り出して集めたものである。賽の河原に模して「西院の河原」と名付けられた。
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参道 2008/11/02 |
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参道の石仏 2008/11/02 |
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西院の河原 2008/11/02 |
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西院の河原 2008/11/02 |
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庫裏 2008/11/02 |
2010.03.09 見寺録-飛鳥寺
飛鳥寺(あすかでら) 真言宗豊山派 鳥形山 開基:蘇我馬子
奈良県高市郡明日香村飛鳥
新西国三十三箇所9番札所
このお寺には4回ほど行きました。講堂と鐘楼だけのような小さなお寺ですが、日本最古の寺院と言うことで、引力は強い。観光客が途切れることがあるんだろうか。必ず何人かはお参りしているように見受けられる。
飛鳥大仏の面長な顔は、数多の仏像の中でも特異な部類にはいると思う。たまに見たくなってつい訪れてしまう。 この仏像に興味がなければ、建築物に古さも大きさもないので、ほとんど記憶に残らないのではと思うが、飛鳥寺周辺にはおもしろいものがあって記憶に残る。蘇我入鹿の首塚と飛鳥坐神社。入鹿は言わずと知れた大化の改新の犠牲者。歴史の深淵に思いを寄せる。飛鳥坐神社は陰陽石で、男根、女陰が風化していい味出してます。まだ見ていないが、毎年2月に奇祭が行われるという。
お寺について(ホームページなどで得た情報です)
蘇我馬子が排仏派の物部守屋を倒した翌年の崇峻天皇元年(588)に馬子が発願し、推古天皇四年(596)に完成した日本最古の本格的寺院とされている。当初、法興寺と呼ばれ後に元興寺に改称、更に地名に因み飛鳥寺と呼ばれるようになったといわれている。
かっての伽藍は建久七年(1196)の火災によって塔堂すべて焼失し、室町時代以降は荒廃してしまう。現在は寛永九年(1632)及び文政九年(1826)に再建された、安居院(あんごんいん)と名づけられた本堂とそれに付属する建物だけの小さな寺になってしまっており、かつての大寺の面影は見られない。
○銅造釈迦如来坐像(重文) 推古天皇十四年(606) 飛鳥大仏
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山門付近 2007/05/12 |
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講堂 2004/02/14 |
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入鹿の首塚と甘樫丘 2004/02/14 |
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飛鳥坐神社 陰陽石 2005/04/23 |
2010.03.08 見寺録-秋篠寺
今回から私のお寺回りをご紹介します。順調にいけば380ヵ寺ほどになると思います。どうぞお付き合い下さい。
秋篠寺(あきしのでら) 単立 山号無し
奈良県奈良市秋篠町757
このお寺には3回ほど行きました。競輪場が近くにあるので何となく落ち着かない。最寄りの西大寺駅から歩いてこられる方は、競輪場を意識することはないかもしれないが、車で行くと見てしまう。欲望渦巻く世界と禁欲の世界。心がざわつきます。
その日は受付で拝観料を払うとき、大学生くらいの若いお兄さんが対応していた。僧侶風でもなく、普通の。たいていこういう場面ではご年配の方々、若くても女性が多いと思うが、新鮮だった。
このお寺はやっぱり伎芸天立像だろうか。なにもかも柔らかく、美しい曲線・・・。彼女もいいけど私は十二神将像の小さいけれどエネルギーみなぎる姿が印象に残った。
本堂は基壇が低く、屋根も軽やかで威圧感がない。鎌倉時代の建築とは思えない趣があり、気に入っている。
お寺について(ホームページなどで得た情報です)
創建年代については明らかではないが、開基は善珠とされている。宝亀十一年(780)秋篠寺へ封戸が施入された記事が「続日本紀」に見えるので、それ以前に創建されていたことは確かである。光仁天皇の勅願によって興福寺の善珠が創建した奈良時代最後の官寺であったが、平安時代末期、兵火のため伽藍の大半を焼失し、今もその跡は苔や落葉の下に一部往事の礎石をとどめている。
◎本堂(国宝) 鎌倉時代初期 寄棟造・本瓦葺、屋根は比較的ゆるい勾配のため、古代建築と見間違えるほどの落着きがある。純和風で天平の威風を遺す貴重な建物。
○伝・伎芸天立像(重文) 頭部のみが奈良時代の乾漆造、体部は鎌倉時代の木造
○薬師三尊像(重文) 平安時代
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本堂 2008/03/15 |
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山門 1999/08/22 |
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2008/03/15 |
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2008/03/15 |
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往時をしのばせる礎石 2008/03/15 |
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