【オリジナルマット工房】スタッフブログ
2010.04.28 見寺録-栄山寺
栄山寺(えいざんじ) 真言宗豊山派 学晶山 開基:武知麻呂
奈良県五條市小島503
奈良県五條市は、平成17年に西吉野村と大塔村が編入され面積は格段に広くなった。吉野川沿いの旧五條市に人口が集中しており、旧西吉野、大塔へと山間部に分け入ると青々とした山並みが幾重にも重なっていて、集落はまばらだ。
その先には、日本有数の秘境といわれる十津川村があり、更にその先には三重県新宮市となって太平洋に行き着く。この紀伊半島を南北に貫く北の拠点が、五條市にあたる。かつては、五新線という五條市と新宮市を鉄道で結ぶ計画があり、五條市辺りでは工事も進められた。今はそれが廃墟のようになって、異景を見せているところもある。歴史では天誅組で知られ、明治維新には重要な位置を占めた。
栄山寺は市街地から離れ、吉野川沿いに立っている。河原が狭まって、渓谷のような姿を見せる所にあって、寺域も川に沿って細長い。駐車場には2、3台しか止められない。このお寺には2回訪れたが、いつも拝観受付に人がいなかった。どうしようかときょろきょろしていると、しばらくして畑の方から野良着姿の人が現れて対応していただいた。そして直ぐ元の所に戻られた。
境内は里山の集落に迷い込んだような感じで、のどかな空間が広がる。数々の寺宝に出合うのにも、遮るものがほとんどない。普段の参拝者が少ないだろうとは想像するが、仮にも重文7件中、国宝2件を有するお寺で、この対応のユルさにはビックリさせられた。「あなたを信じてますよ」と言われてみたいで、愉快だった。
八角円堂はその姿がたまらなくいい。良くできてるなー。かっこいいなー、としみじみ思う。堂内へも自由に入れる。柱や天上に施された彩色画の剥落や、色あせが甚だしいのに加え、仏像の傷みは目を覆うばかり。文化財保存という観念がここは少し違っているようだ。人が触れないよう管理を行き届かせ、暗い堂内で目を凝らせて見るのが好いか、開けっぴろげの明るい堂内で風化して朽ちていくのを見るのが好いか。後者の方が自然でこのお寺の姿勢が一貫しているということだろう。
参拝者を疑わないこのお寺の姿勢がいつまで続くのか・・。願わくばいつまでも続いて欲しい。
お寺について(ホームページなどで得た情報です)
古くは前山寺(さきやまでら)と呼ばれ、養老三年(719)藤原不比等の長子である藤原南家初代武知麻呂の開創による。その後、武智麻呂を祖とする藤原南家の菩提寺として鎌倉時代になるまで大いに栄えた。南北朝時代には南朝の後村上・長慶・後亀山天皇の行在所が置かれていた。そのため「栄山寺行宮跡」として国の史跡に指定されている。
現存する八角堂は、藤原武智麻呂の没後、子の藤原仲麻呂が父の菩提を弔うために建立したと伝える。
◎八角円堂(国宝) 天平時代 城京および斑鳩以外の地区にある奈良時代建築として稀有のものであり、建立年次がほぼ特定できる点でも貴重な建築である。
◎梵鐘(国宝) 平安時代 平安三絶の鐘
○八角堂内陣装飾画 (重文) 奈良時代
○本堂(重文) 室町時代
○石灯籠(重文) 鎌倉時代
○薬師如来座像(重文) 室町時代
○石塔婆(重文) 奈良時代
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境内 2009/02/07 |
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本堂 2009/02/07 |
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八角円堂 2004/02/02 |
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八角円堂 2009/02/07 |
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梵鐘 2009/02/07 |
2010.04.23 見寺録-永源寺
「え」で始まるお寺の始まりです。
永源寺(えいげんじ) 臨済宗永源寺派 瑞石山 開基:寂室元光
滋賀県東近江市永源寺高野町41
神仏霊場巡拝の道第140番
http://eigenji-t.jp/
東近江市は平成の大合併で生まれた市で、7つの自治体が合体して誕生した。永源寺はかつての永源寺町にあった。
このお寺は、三重県との県境1000mの山々が連なる鈴鹿山脈の山麓にあり、名神高速道路八日市インターを下りて国道421号線を東へ約10km走ると永源寺にたどり着く。愛知川にかかる橋を渡って、門前の土産物屋の前に車を止めると駐車料金は取られないが、他の駐車場では500円ほど払う。
2000/09/03に永源寺を訪れた時、もらったパンフレットの紅葉が美しく、紅葉のピークと思われたその年の11月23日に、ふと確かめたくなって出かけてみた。ふと、軽い気持ちで出かけてみたものの、永源寺手前1500m位から車はぴたりと止まってしまい、思い出したようにちょっと動く、またちょっと動く。逃げ出したくなるような渋滞がそこにあるとは思ってもいなかった。40分ほど並んで車を停めると、そこには観光バスがずらりと並び、ここは知るひとぞ知る紅葉のメッカであることを始めて知った。11時というわりあい早い時間だったからこれくらいで済んだのであって、午後から出かけた人は6km近くの渋滞の中でもんもんとすることになる。
下の写真はその後の2008年のもので、紅葉の盛りを過ぎていたのか、駐車場が充実したのかわからないが渋滞はなかった。本堂まで緩やかな上りの参道が続く。参拝者は多いが、この辺りまでは紅葉を楽しめないほどではなかった。しかし、本堂前が広場から庭園風に改造されたことによってか、人の流れが滞って混雑はすごいことになっていた。
茅葺きの大屋根に圧倒されはするが、禅宗寺院独特の、ピリッとした空気は完全になくなっていた。写真撮影目当ての参拝者というより観光客が、我が物顔に振るまい人の流れを阻む。その人達がグループで行動したりしていると、いらだちさえ思える。ならば紅葉の時に行かねば好い。これが結論。
お寺について(ホームページなどで得た情報です)
南北朝時代の康安元年(1361)、近江国の領主佐々木氏頼が、この地に伽藍を建て、寂室元光禅師を迎えて開山し、瑞石山永源寺と号した。禅師の死後、応安二年(1369)後光厳天皇は禅師を追崇され円応禅師の称号をおくり、さらに昭和三年(1928)4月には正燈国師の称号をおくられている。
応仁の乱には、京都五山の名僧がこの地に難を避け修行し、“文教の地近江に移る”と言われるほど隆盛をきわめた。明応(1492)永禄(1563)とたび重なる兵火にかかり、本山をはじめ、山上の寺院悉く焼失した。寛永年間、後水尾天皇の帰依を受け再興された。
明治以来、臨済宗永源寺派の本山となり、百数十の末寺を統轄し、座禅研讃、天下太平、万民安穏を祈る道場となっている。
○絹本着色地蔵十王像(重文)
○絹本着色約翁徳倹像(重文)
○塑造寂室和尚坐像(重文)
○寂室元光墨蹟(風攪飛泉詩)(重文)
その他重文多数。
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愛知川から永源寺方向を望む 2008/11/29 |
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山門 2008/11/29 |
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2008/11/29 |
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本堂 2008/11/29 |
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境内 2008/11/29 |
2010.04.21 見寺録-雲龍寺
「う」で始まるお寺はひとつだけです。
雲龍寺(うんりゅうじ) 曹洞宗 高源山 開基:良源
兵庫県三木市上ノ丸9-4
見寺録で紹介するお寺の「い」が終わって、次を考えた時「う」で始まる寺がなかった。「う」の寺がないのは、絶対数も少ないであろうから、「う」をとばしても良かったのだが、三木市に雲龍寺があったなあと思いだし、急遽、このお寺に行くことに決めた。
三木市は東播磨地方に位置し、神戸市の北に接している。人口は約82,000人。金物の町。なだらかな丘陵地が広がり、ゴルフ場やニュータウンが多く開発されている。美嚢川という大きな川が旧市街の中心を流れ、明るくのびのびした景観がある。肥沃で落ち着いた暮らしやすそうな印象を持った。
山陽自動車道、三木小野インターを下り、ナビに従って車を進めると旧市街に入り、細い枝道に案内された。門前まで車で来たが、止めるところがない。住宅地の狭い道をぐるっと回って引き返し、近くの図書館の駐車場に止めた。 同じ敷地にある堀光美術館には参拝の後訪れた。
歩いていくと左手からアプローチすることになり、白い漆喰の土塀が見えてきて美しい。門前に来ると葉桜になりかけた桜が迎えてくれる。観光客を招いたり、寺宝拝観は行っていないようで、静まりかえった境内があった。鐘楼など近年改築された所もあって、時運は栄えているようだった。さて、別所長政の首塚という案内標識に従って行ってみると、そこには広くてとても立派な駐車場があって驚いた。ナビに多くを期待してはいけないが、ここに案内してほしかった・・・。
戦国大名別所長政は、夫人と共にこの地に眠る。
お寺について(ホームページなどで得た情報です)
天徳二年(957)天台宗の僧良源によって創建されたという。その後、平安時代後期の保元年間に兵火にあって荒廃したが、鎌倉時代後期に赤松氏によって復興され、元亨二年(1322)には後醍醐天皇により現在の山号に改められた。室町時代には別所氏の帰依を得た。天正六年(1578)豊臣秀吉による兵火により焼失したが、秀吉から寺領を安堵されている。
秀吉による、2年間も及ぶ兵糧攻めで敗れた三木城主別所長治の首塚がある。別所長治の首は京都に送られたが、当寺住職が貰い受けて持ち帰り、首塚として手厚く葬ったと伝えられる。
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山門 2010/04/18 |
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本堂 2010/04/18 |
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庫裏 2010/04/18 |
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境内 2010/04/18 |
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別所長治の首塚 2010/04/18 |
2010.04.15 見寺録-岩湧寺
「い」で始まるお寺は一応これでおしまいです。12ヵ寺ありました。
岩湧寺(いわわきじ) 融通念仏宗 湧出山 開基:役行者
大阪府河内長野市加賀田町3824
河内長野市は、高野街道が通り、古くから交通の要衝として栄えた。古社寺も多く残り、国の重文指定の有形文化財は83件あって、全国で12番目だそうだ。大阪府では大阪市に次いで多い。
このお寺へは、市の中心から南の方向にある青葉台という新興住宅地を抜け、渓谷の中の細い道を進んでいく。途中、小さな駐車場が点在し、何処も車で一杯だったが、かなり登ったところで空いている所を見つけられた。全くの予備知識無しで来たので、この車の多さは驚いた。後で調べると岩湧山へのハイキングの出発点になっているようだった。
本堂は江戸時代初期に建立されたという。銅板葺の方形造りの屋根を持つ本堂と多宝塔は、大きさがこの狭い境内にちょうど良い具合に配置されているように思われた。庫裏に人の気配もなく、堂内の拝観など望むべきもなかった。
境内に群生する秋海棠(シュウカイドウ)は、ベゴニアの仲間で、江戸時代初期に日本に持ち込まれた帰化植物。とは後で調べてわかったが、初めて見る美しい花だった。文人に好まれ、芭蕉も句を残している。
お寺について(ホームページなどで得た情報です)
役行者が開祖で、創建は大宝年間(701~703)とされる。文武天皇の勅願寺であったと伝えられる。桃山時代は豊臣氏の庇護を受けた。初めは天台宗であったが、明治に融通念仏宗に帰依し現在に至る。
○多宝塔(重文) 16世紀
○本尊大日如来坐像(重文) 平安時代後期
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山門 2006/09/03 |
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本堂 2006/09/03 |
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多宝塔 2006/09/03 |
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多宝塔 2006/09/03 |
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境内に咲く秋海棠(シュウカイドウ) 2006/09/03 |
2010.04.14 見寺録-岩間寺
「い」-も残すところあと2ヵ寺になりました。
岩間寺(正法寺)(いわまでら(しょうほうじ)) 真言宗醍醐派 岩間山 開基:泰澄
滋賀県大津市石山内畑町82
http://www.iwama-dera.or.jp/
西国三十三箇所12番札所 ぼけ封じ観音4番
このお寺は、京都府宇治市との府県境にあって、石山寺からも近い。道標にしたがって県道を離れると、山道に入り、くねくねと登って行く。車止めのある脇に駐車場があった。山門はない。アスファルトの道を歩いていくと、ホテルのような建物がドーンとあって、なんでこんな山奥に?と思わずにいられない。首を傾げて近づくと、岩間寺信徒会館とあった。それほどの大寺には見受けられないのに、信者さんの数も力もすごいことになっているんだろう。
本堂は安土桃山時代に再建されたという。不動堂は平成五年に立て替えられ、総じて伽藍は新しいもののようだ。 本堂前には、銀杏の大木がそびえ立っている。本尊のご開帳が、花山法皇一千年御忌を記念して、平成22年4月17日~5月17日にあるという。前回は昨年19年ぶりに行われたが、その前は平成2年で365年ぶりであったらしい。次はいつか予定はないという。これを見逃したらまずチャンスはないだろう。
お寺について(ホームページなどで得た情報です)
開祖泰澄(タイチョウ)は「越(コシ)の大徳」といわれ、加賀の白山を開いた後、岩間山に来て桂の木で千手観音像を彫り、胎内に念持仏の金銅千手観音像を納めて本尊とし一寺を建立した。これが当寺の始まりとされる。又、大宝二年(702)泰澄は鎮護国家の法師に勅任され、元正天皇の平癒を祈願した功により、養老六年(722)勅命を受けて、岩間山を行脚中桂の大樹より千手観音が現れ啓示を受けて、当山を創建したと伝える。平安期には山岳信仰の霊場であったが、やがて衰退して醍醐寺の末寺となったが、天正五年(1577)正親町(オオギマチ)天皇が再興したという。
雷除観音のいわれは、泰澄大師が雨乞いの祈願を行っていた際、何度も寺が落雷に見舞われ堂塔が焼けてしまった。泰澄は雷を鎮めるため、地上に落ちてきた雷を宝刀で止めて、迷惑をかけてきたことを反省させ、水の乏しい岩間山に水を出させると約束させた。これが「雷神爪堀の霊泉」と呼ばれるようになった。
○木造地蔵菩薩立像(重文) 平安時代後期
○木造不動明王二童子立像3躯(重文) 鎌倉時代
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境内 2005/08/29 |
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本堂 2005/08/29 |
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本堂 2005/08/29 |
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本堂と雷神霊泉 2005/08/29 |
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境内から南方向 2005/08/29 |
2010.04.13 見寺録-今熊野観音寺
今熊野観音寺(いまくまのかんのんじ) 真言宗泉涌寺派 新那智山 開基:空海
京都市東山区泉涌寺山内町32
http://www.kannon.jp/
西国三十三箇所15番札所 ぼけ封じ・近畿十楽観音霊場第1番
洛陽三十三所観音霊場の第19番 神仏霊場巡拝の道第122番
京都市を南北に走る通りの一番東の通り、東大路通りがカーブして東西に走る九条通に変わる辺りに泉湧寺交差点がある。そこを山手の方向に進んで、どん付きに泉湧寺の駐車場がある。このお寺には泉湧寺境内を通って行った。
この辺りには、街の喧騒は全く及ばない。参拝者もさほど多くはないので、広い境内には閑散とした印象さえ覚える。奥には陵(みささぎ)が点在し、森と一体になって静粛な空間を作っている。鳥のさえずりを聞いているいると、混雑した京都の街が嘘のようだ。
お寺について(ホームページなどで得た情報です)
大同二年(807)弘法大師が唐の国で真言密教を学んで帰国した翌年、熊野権現のご霊示を受けて この地に庵をむすんだのが始まりと伝える。弘仁三 年(812)大師は嵯峨天皇から官財を賜わり、勅 旨を奉じて諸堂を造営する。さらに左大臣藤原緒嗣 の発願によって広大な寺域に伽藍の造営が図られた。
白河法皇(1053-1129)のころには、すでにこの地は熊野修験の中心地であり、この京都の今熊野権現とその本地仏とに対する信仰は、九州の宇佐信仰の習合した山岳仏教、九州豊後の国の国東半島を中心とする一帯に平安後期からおこった今熊野権現とその本地仏を信仰する修験に大きな影響を 及ぼした。
東山七条の東の峰を阿弥陀が峰といい、その峰の南西一帯を鳥戸野(とりべの)と呼び、皇族貴族の葬儀や法要がこの地で行われた。平安時代中期以来綿々として皇族方の葬送の場となり、鳥戸野の管掌寺院として皇室との御縁をつなぎ、歴朝の崇敬を得て栄えた。
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鳥居橋 2006/04/29 |
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子護大師像 2006/04/29 |
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本堂 2006/04/29 |
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医聖堂 2006/04/29 |
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医聖堂(多宝塔) 2006/04/29 |
2010.04.12 見寺録-一休寺
一休寺(酬恩庵)(いっきゅうじ(しゅうおんあん)) 臨済宗大徳寺派 霊瑞山 開基:大應
京都府京田辺市薪里ノ内102
http://www.ikkyuji.org/
京田辺市は、京都、大阪、奈良のベッドタウンとしての性格と、近年同志社大学の田辺キャンパスが出来、京阪奈学研都市の新しい街が出来たことにより、隣接の街を含め、開発著しい地区として印象に残る。それらの施設や町並みは、多く丘陵地帯を開発したのだろう、造成されたまま建物が建っていない所などは、殺風景な印象もある。
このお寺を訪れた頃は、幹線道路が整備されていなくて、細い枝道を辿って行った。駐車場は十分広く、有名寺院であるのだろう。総門からまっすぐに伸びた参道は、受付から直角に右に折れて本堂まで続く。この間の風情がたまらなくいい。道は適度に細く、樹木が頭上を被い、石畳脇は苔むしてしっとりとしている。その樹木の多くは楓だ。紅葉すればどうなるか、想像に難くない。
庭園も見事である、臨済宗の寺院は総じて庭園というものに力と神経を注いでいるように見受けられる。同じ禅宗でも、曹洞宗や黄檗宗ではそういう印象を持つことはない。もちろん他の宗派で立派な庭園を持っているところも数多いが、臨済宗の寺院は飛び抜けている。
そういった佇まいにも神経を使う寺院でありながら、ここは一休さんで少し肩の力が抜ける。その一例は庫裏にある一休さんのアニメ。極めつけは、開山堂の奥の溝に架かるほんの小さな石橋に、“このはし渡るべからず”と書いてあったこと。そこへ通りかかったご婦人のグループが、「ここ渡ったらあかんねんてぇー」と、いいながら引き返したのを見てしまった時、脱力感は言い様のないほど私を襲った。 このとんち話を知らないとは・・・・。
お寺について(ホームページなどで得た情報です)
元の名は妙勝寺といい、鎌倉時代、臨済宗の高僧大應国師(ダイオウコクシ)が中国で禅を学び、帰朝後禅の道場をここに建てたのが始まりである。その後、元弘の戦火にかかり復興もならずにいたものを、六代一休禅が康生年中(1455~6)宗祖の遺風を募って堂宇を再興し、師恩に報いる意味で、「酬恩庵」と命名した。禅師はここで後半の生涯を送り81歳で大徳寺住職となったときもこの寺から通ったのであり、文明一三年(1481)88歳の高齢を以て当寺において示寂され遺骨は当所に葬られた。禅師が晩年を過ごしたことにより、「一休寺」の通称で知られるに至った。
○本堂(重文) 永享年間(1429~40) 入母屋造り檜皮葺
○方丈(重文) 慶安三年(1650)
○庫裏 (重文)
○東司(重文)
○浴室 (重文)
○木造一休和尚坐像 (重文) 文明十三年(1481) その他重文あり
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総門 2003/05/25 |
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参道 2004/11/28 |
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庫裏 2003/05/25 |
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庭園 2003/05/25 |
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本堂 2004/11/28 |
2010.04.05 見寺録-一乗寺
一乗寺(いちじょうじ) 天台宗 法華山 開基:法道
兵庫県加西市坂本町821-17
西国三十三箇所26番札所 播磨西国三十三箇所33番
神仏霊場巡拝の道第77番
加西市に限らず、播磨地方は関西の中でゴルフ場が飛び抜けて多い。これは平地と丘のような小山が連なる、地形が影響しているように思う。少々ほこりっぽいが、明るい土地というイメージを持っている。
山道に入って、少し行くとお寺の広い駐車場がある。道を渡って道路脇の広場から境内が始まる。山門はないようだ。 まっすぐ延びる長い石段が印象的。登り切ると本堂にたどり着くが、あいにく解体工事中で、その姿を見ることは出来なかった。残念至極。よって本堂の写真がない。
石段脇の狭い領域に、ひな壇に建つように堂宇が並んでいておもしろい。三重塔は三人官女か。華があって気品がある。
開基の法道仙人は伝説上の人物らしいが、兵庫県南部を中心に、多くの寺院で開基に名を残す。この先いくつ出てくるだろうか。
お寺について(ホームページなどで得た情報です)
百雉元年(650)インドの高僧法道仙人が孝徳天皇の勅願で創建したといわれる。孝徳天皇の病を仙人が、加持祈祷して瞬く間に平癒した。喜ばれた天皇は仙人に建立を命じたという。落慶法要には天皇も行幸され、一乗寺の額を授け、聖観音像を安置して本尊にした。
行基、空海なども訪れており、また、後醍醐天皇の勅命で大講堂が建てられるなどして隆盛を極めたが、度重なる火災に遭い多くの堂宇を失う。しかしその都度再建され今日に至る。
◎三重塔(国宝) 承安元年(1171) 平安時代末期
◎聖徳太子及天台高僧画像拾幅(国宝) 東京、奈良国立博物館等出品
○本堂(重文) 江戸時代(1628) 平成十九年まで解体工事中
○石造五輪塔(重文) 鎌倉時代
○銅造観音菩薩立像 2躯(重文) 秘仏本尊像とその前立ち像
その他重文多数
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門前 2005/11/05 |
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参道 2005/11/05 |
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境内 2005/11/05 |
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三重塔 2005/11/05 |
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常行堂 2005/11/05 |
2010.04.03 見寺録-石山寺
石山寺(いしやまでら) 真言宗東寺派 石光山 開基:良弁
滋賀県大津市石山寺1-1-1
西国三十三箇所13番札所 江州三十三観音1番
近江三十三観音3番 神仏霊場巡拝の道第146番
http://www.ishiyamadera.or.jp/
このお寺は、琵琶湖から流れ出る唯一の川、瀬田川の西にある。観音霊場の有名寺院で、多数の参拝客に対応できるように、お寺の回り全体が整備されている。寺院参拝の他に、紫式部、源氏物語など、古典文学の聖地でもあるんだろうか、学生のゼミ風のグループを見かけた。
すぐ近くに瀬田川が流れ、西に開けた低地から緩やかに丘に上るように境内が広がる。大門は正面に開けた空間が広いので、存在感が一際だ。本来の大きさより余計に大きく感じる。広く長い参道は本堂などの堂宇へ誘うイントロとして申し分ない。伽藍のほとんどは参道の右側にあって、参道を折れると、石段の上にあるのが本堂だ。傾斜地に無理やり建てたような造りで、清水寺などと同じ、床を長い木組みで支える懸造(かけづくり)になっている。このお堂回りにはスペースがないので、全体を見渡せなかった。
本堂から更に登っていくと、我が国最古といわれる多宝塔の鎮座する広場に出る。その奥には月見亭があって、ここから眼下に見る瀬田川が印象に残った。
お寺について(ホームページなどで得た情報です)
聖武天皇が奈良東大寺大仏造立の際、黄金がないのを憂いて良弁を吉野の金峯山に祈らせたところ、金剛蔵王の夢告があり、瀬田の霊山で祈願せよと教示された。良弁は瀬田で老人と出会い、石山のあたりに観音を祀るようにいわれる。そこで如意輪観音を安置したところ、陸奥に金脈が発見され、朝廷に献上した。その後、この像を本尊に堂宇を建立したのが石山寺の起こりと伝える。
実際には、天平五年(761)東大寺の建築用資材の集積地として「石山院」という役所が置かれ、拡張改築の結果、有力諸大寺に肩を並べるにまでなった。
平安京遷都後は、歴代天皇や多くの貴族が参詣し、紫式部が「源氏物語」を綴り、「蜻蛉日記」「和泉式部日記」「枕草子」 「更科日記」などに石山寺の記述を見ることができる。
現在の本堂は永長元年(1096年)の再建。東大門、多宝塔は鎌倉時代初期、源頼朝の寄進により建てられたものとされ、この頃には現在見るような寺観が整ったと思われる。石山寺は兵火に遭わなかったため、建造物、仏像、経典、文書などの貴重な文化財を多数伝存している。
◎本堂(国宝) 慶長七年(1602) 如意輪観世音半跏像(重文)を安置する。
◎多宝塔(国宝) 鎌倉時代初期(1194) 日本最古
◎漢書 高帝紀下、列伝第四残巻(国宝)
◎史記 巻第九十六、九十七残巻(国宝)
○東大門(重文)
○木造如意輪観音半跏像(重文) 平安時代後期
秘仏で、33年に1度の開扉と、天皇即位時の開扉以外は公開されることがない。
○塑造金剛蔵王立像心木(重文)
◎その他国宝指定の書多数
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東大門 2005/08/27 |
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参道 2005/08/27 |
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本堂 2005/08/27 |
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珪灰石 (国の天然記念物) 2005/08/27 |
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多宝塔 2005/08/27 |
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