【オリジナルマット工房】スタッフブログ
2010.06.30 見寺録-円成寺
円成寺(えんじょうじ) 真言宗御室派 忍辱山 開基:虚瀧
奈良県奈良市忍辱山町1273
大和十三仏12番
名勝:円成寺庭園 平安時代後期の作庭
このお寺は、奈良市の北東、いよいよ京都府との府県境が迫ってきた辺りに位置する。奈良市でもゴルフ場以外、開発ががあまり行われていないところで、 のどかな山間の小さな集落が点在している。
山号の「にんにくせん」。初めて聞いた時ドキッとしたのを覚えている。ニン ニクに縁があるのか、はたまた人の肉をうんぬんするのか、と。よほどお寺と 縁遠い言葉の響きがあった。酒池肉林という退廃的なイメージすら持ってしまった。「忍辱」とはどんな苦難にも耐えるということらしい。
国道脇の無料駐車場に車を止め、道を横切る。この道は大小様々なカーブがあり、信号もほとんどないから、車やバイクはドライブを楽しむにはもってこいで、法定速度を超えてビュンビュン飛ばしている。特にバイクは100km/hほどでかっ飛ばしているやつがいるので、見通しの利かないここを横断するのは気をつけて。
道を横切ると標石があって、少し進むといきなり庭園が現れる。堂宇までのイントロがいきなり名勝庭園とは、なかなか出会えない感動がある。
池に対峙した楼門から拝観できると思いきや、通用門からの拝観となる。この楼門は檜皮葺で、非の打ち所がないほど景観にとけ込んでいる、本堂は縁が深い造りになっていて、階段両脇に舞台のような広い板の間があり独特の意匠を見せる。本堂内は自由に拝観でき、様々な寺宝を堪能できた。多宝塔内に安置されている大日如来にも出会えるが、ガラス越しであったことが残念であった 。
お寺について(ホームページなどで得た情報です)
天平勝宝八年(756)聖武・孝謙両天皇の勅願によって唐僧虚瀧(コウロウ)和尚の開山と伝えられているが、史実的には平安中期の万寿三年(1026)に命禅上人が再興して十一面観音を祀り、その後1156年京都仁和寺の寛遍僧正が東密忍辱山流をおこして寺勢を上げた。しかし、応仁の乱(1466)の兵火で伽藍の大半が焼失するも、程なく栄弘師が再興した。江戸時代は寺中23寺を有する大寺であったが、維新後寺領没収で今の境内と建物を残すのみとなった。境内の東入口にある勧請縄とよばれる注連縄は、五穀豊穣を祈る〆縄で、1月10日に謹製し中央の飾り物は陰陽を表すという 。
◎大日如来坐像(国宝) (1176年)平安時代末期 現存する運慶最初期の作
◎春日堂・白山堂(国宝) 鎌倉時代初期 最古の春日造社殿
○本堂(重文) 室町時代 四本柱に聖衆来迎二五菩薩が描かれ、藤原時代の阿弥陀堂を現している。
○楼門(重文) 応仁二年(1468)
○阿弥陀如来坐像(重文) 本尊 平安時代後期
|
|
楼門 2010/01/24 |
|
|
本堂 2010/01/24 |
|
|
多宝塔 2010/01/24 |
|
|
春日堂・白山堂 2010/01/24 |
|
|
庭園 2010/01/24 |
2010.06.28 見寺録-円鏡寺
円鏡寺(えんきょうじ) 高野山真言宗別格本山 池鏡山 開基:空海
岐阜県本巣郡北方町北方1345
西美濃三十三霊場3番 東海三十六不動尊32番
美濃四国八十八ヶ所51番 美濃三弘法1番
北方町は南西部、濃尾平野の北部に位置し、面積は岐阜県内で一番小さいが、人口密度は県下有数という。近隣の岐阜市や、大垣市には30分以内で行くことが出来、住宅都市化が進んでいる。人口も増加傾向。周り一帯平地ばかりで起伏がないようだ。
円鏡寺へは、名神高速大垣インターを下りて大垣市へ出、国道21号線岐大バイパスを東へ進み、県道23号線へ左折して入る。北上すること約4Km、北方町役場を目指せばすぐ近くだ。役場、公園、寺共通?の無料駐車場に車を止めた。
円鏡寺は小学校や中学校にも隣接していて、行政、文教地区に広い寺域を有している。公園のように整備されたところもあって、憩いの場になっているようだ。
立派な楼門は檜皮葺で、軒先がつんとして、軽やかだった。仁王像もしっかり立ち誇り、重厚さも兼ね備えている。
楼門を入ると回遊庭園のような境内が広がる。太鼓橋を渡って本堂に着く。この建物には縁がなく、この大きさの堂宇にしては珍しいのではないだろうが。堂内には入れないようだった。本堂右手には平成に建立された三重塔が建つ。
道を隔てて向側には、本坊などこのお寺の実務を行う施設が建ち並んで、寺格の高さを物語る。美濃の正倉院とも呼ばれるくらい、多くの文化財があるというが、金剛力士像以外のそれらを拝むことは出来なかった。
お寺について(ホームページなどで得た情報です)
弘仁二年(811)、嵯峨天皇の勅命により空海が創建したという。不動明王を本尊とし、定照寺と名づけられる。後に、補陀落上人により聖観音菩薩が安置されたことにより補陀落院と改称されたという。 永延二年(988)、良祐により現在の伽藍の元が築かれ、一条天皇より「池鏡山円鏡寺」の名を授かる。寺名は境内に池を造った際に明鏡が出土、これを献上したことによる。享保一六年(1731)の火災で観音堂が焼失。寛保元年(1741)観音堂が再建された。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康などの歴代権力者からの保護を受けており、朱印状も受けている。大正三年(1914)楼門が修築された。 美濃の正倉院とも言われる。
○楼門(重文) 永仁四年(1296)建立 入母屋造、檜皮葺 明治神宮の南楼門のモデルとなったという。
○木造聖観音立像(重文) 平安時代
○木造不動明王立像(重文) 平安時代
○木造金剛力士像(重文) 鎌倉時代 運慶の作
|
|
楼門 2008/12/20 |
|
|
境内 2008/12/20 |
|
|
本堂 2008/12/20 |
|
|
三重塔 2008/12/20 |
|
|
本坊 2008/12/20 |
2010.06.15 見寺録-円教寺
円教寺(えんきょうじ) 天台宗 書寫山 開基:性空
兵庫県姫路市書写2968
西国三十三箇所27番札所 播磨西国三十三箇所1番札所
播州薬師霊場16番 神仏霊場巡拝の道 第75番
http://www.shosha.or.jp/
姫路市は県下2番目の都市で、人口は約53万人。JR姫路駅の南は、行政の中心と臨海工業地帯が広がり、北は姫路城や美術館、書写山などがあって、南北では全く違った印象がある。
このお寺は書写山と呼ばれる山の頂上付近にあって、寺域は広大だ。塔頭も数多い。2度参拝したが、どちらも麓から徒歩で登った。371メートルとさほど高い山ではないので、気持ちよく登れる。ちょっとチャレンジングな気もしたが、途中、眼下に姫路市がほん近くに遠望でき、印象的だった。
2003年公開のラストサムライのロケ地となったことで、有名になったが、その映画自体は、日本以外でのロケやセットが日本離れしていて、ちぐはぐな印象を持った。食堂でのシーンは印象的で、この巨大木造建築物の状態を良く表していたと思う。
西の比叡といわれるように、伽藍の大きさ規模も桁外れで、現在まで本当に良く残っていると感心させられた。昭和の頃?ロープウエイの山上駅から摩尼殿辺りまで馬車が人を運んでいたという。帰りはロープウエイを使って下山した。
お寺について(ホームページなどで得た情報です)
康保三年(966)、性空(しょうくう)上人によって開かれる。「この山に登る者は菩提心を起こし、また峰に棲む者は六根を浄められる」という文殊菩薩のお告げとおり、摩尼殿上の白山に於いて、上人は六根清浄の悟りを得た。986年、花山法皇の勅願により当山の中心となる大講堂は創建される。この時円教寺号を賜った。その後上人の徳を慕い利益(りやく)を得ようという人々の多くの信仰を集め、「西の比叡山」とも称されるように僧侶の修行の道場として栄えてきた。
○大講堂(重文) 室町時代初期
○常行堂(重文) 創建不詳
○食 堂(重文) 承安四年(1174) 長さ約40mで、二階建て建築では他に類をみない。
○護法堂(重文) 室町時代末期
○六阿彌陀如來坐像(重文)
その他重文多数。
|
|
登山道 2005/11/26 |
|
|
仁王門 2005/11/26 |
|
|
摩尼殿 2005/11/26 |
|
|
大講堂 2005/11/26 |
|
|
食堂(じきどう)(二階部分) 2005/11/26 |
2010.06.11 見寺録-家原寺
家原寺(えばらじ) 高野山真言宗 一乗山 開基:行基
大阪府堺市西区家原寺町1-8-21
西国薬師四十九霊場第15番 おおさか十三仏霊場第3番 仏塔古寺十八尊第1番
http://homepage1.nifty.com/ebaraji/ 文殊菩薩を本尊とし、合格祈願の寺として名高い。
堺市は大阪市の南に隣接した都市で、人口は約83万人。政令指定都市になっている。古代より日本にとって大きな役割を担っていた。大仙古墳に代表される古墳群が強大な権力があったことを象徴し、中世では、国際貿易都市として、世界にその名が知られていた。
家原寺は、何処までも続くような住宅地の中にあって、ちょっとほこりっぽいが、寺領は広い。古くからの堂宇に加え、近代的な施設も多くお寺のいけいけ路線が垣間見られる。日本最大という護摩炊きもあれば、小高い丘に建つ三重塔は平成になって建てられたという。
祈願寺で名高いこのお寺は、3年前の冬、娘の合格祈願に参拝した。山門から一直線に約100m、石段を少し登ったところに本堂が建つ。周りに高い建物がないので、境内に入ると大都市の中にいるという感じがしない。
遠目に本堂が見え、屋根以外は白く輝いて見えた。近づくと本堂の柱といわず側板、扉などあらゆるところに白いハンカチが張られている。それも幾重にも幾重にも・・・重なって。合格祈願に訪れた参拝者が、絵馬ならぬハンカチを買い求め、願い事を書いて本堂の建物に直に画鋲で貼っている。別名「落書き寺」といわれる所存だ。これだけの数の願いが叶うことを、このお寺が求められているということ。煩悩渦巻く世界を目の当たりにした。
祈願叶って我が子は志望校へ進学し、お礼参りに4月再訪した。
お寺について(ホームページなどで得た情報です)
この寺は戦後単立寺院となったが、もとは真言宗金剛峰寺の末寺で、所在地であるかつての地名に因んで石川寺、磯長寺などと称されていた。また、聖徳太子の磯長(しなが)墓を祭祀守護する性格の寺院であることから太子寺、御廟寺、聖霊院の号もあり、四天王寺、法隆寺とならんで太子信仰の中核をなした寺院である。
寺伝によると推古天皇三十年(622)聖徳太子の陵墓を守護し永く追福を営むために一堂を構えたのが当寺の始まりで、神亀元年(724)聖武天皇の勅願によって創建されたといわれる。
現在の伽藍は、天正二年(1574)信長の兵火で焼失したあと再建されたものである。
○聖霊殿(重文) 豊臣秀頼が慶長八年(1603)再建した
|
|
山門 2007/01/29 |
|
|
本堂 2007/01/29 |
|
|
2007/01/29 |
|
|
本堂内外陣 2007/01/29 |
|
|
三重塔 2007/01/29 |
2010.06.04 見寺録-永保寺
永保寺(えいほうじ) 臨済宗南禅寺派 虎渓山 開基:夢窓疎石
岐阜県多治見市虎渓山町1-40
名勝:永保寺庭園
http://www.kokei.or.jp/
多治見市は愛知県と接し、名古屋中心部まで電車で30分という利便性から、名古屋のベッドタウンとして栄える。また、志野焼、織部焼など美濃焼の産地として知られる。
永保寺はずいぶん前から行きたいと思っていたお寺だ。地図には鉛筆でぐるぐると丸がしてあって、何気なく地図を見てもこのお寺を意識するよう、何年か前の自分が仕組んでいた。
永保寺へは、中央道多治見インターを下りて行く。インター出口直ぐを左へ進むと、程なく住吉町5の交差点に出合う。交差点を左折して虎渓山町に入ると永保寺の案内があって迷うことはない。中央本線の踏切の手前に広い無料駐車場があって車を止めた。
アスファルトの道を少し行けば、立派な塔頭が2、3あって大きな寺院だという見当が付く。この辺り、参道という風情ではない。この経路から参拝すると山門はない。道が下ったところに永保寺の境内が広がっている。いきなり名勝庭園の中に入り込むという嗜好にビックリだ。まず目にはいるのは屋根の軒が大きく反り返った観音堂。この唐様の観音堂、反りはちょとやりすぎではないかと思うほどの意匠。檜皮葺のためか軽やかで、尖端が鋭く尖って上方にするっと消えていく感じ。ダリの気取った口ひげを連想した。
観音堂から池をぐるっと回って、対岸から眺めれば、池には太鼓橋が架かって水面に姿を写す。脇には岩肌を露わにした小山があり、頂上に祠が建っている。更に進めば、少し奥まったところに観音堂と同じ唐様の開山堂がある。それら全体が庭園をなしているのだが、実に行き届いたデザインですばらしい。
臨済宗の寺院は、押し並べて庭園を造形しているように思う。どうしてここまで庭園造りにエネルギーを注ぐのか。大きな謎だ。
お寺について(ホームページなどで得た情報です)
山号の虎渓の名称は景色が中国廬山の虎渓に似ていることによるといわれる。正和二年(1313)岐氏の招きをうけた夢窓疎石が、長瀬山の幽境に庵居しこの禅寺を開創したが、文保元年(1317)夢窓は同門の元翁本元(仏徳禅師)に寺の後事を託して上京した。 建武二年(1335)夢窓が臨川寺(京都)開山となったとき、永保寺開山は元翁本元に改められた。元翁の寂年は元弘元年(1331)で、開山となった時にはすでに遷化されていたが、元翁の塔所である南禅寺正的庵末寺の五山派寺院として展開した。しかし文明期以後には衰微したが、江戸時代の延享三年(1746)には末寺28ケ寺、孫末寺1ケ寺を有し、山内塔頭の輪番によって住持をつとめ護持されてきた。
◎観音堂(国宝) 南北朝時代 禅宗様仏殿
◎開山堂(国宝) 南北朝時代
○絹本着色千手観音図(重文)
|
|
観音堂 2009/10/18 |
|
|
観音堂 2009/10/18 |
|
|
名勝庭園 2009/10/18 |
|
|
開山堂 2009/10/18 |
|
|
反りの鋭い屋根の観音堂 2009/10/18 |
2010.06.02 見寺録-永平寺
永平寺(えいへい じ) 曹洞宗 吉祥山 開基:道元
福井県吉田郡永平寺町志比5-15
永平寺町は、平成の大合併で永平寺町、松岡町、上志比村の2町1村が合併して大きくなった。福井市の東部に位置し、福井市に接している。東西に横断するように大きな九頭竜川が流れ、流れに沿って” えちぜん鉄道”が走っている。
このお寺は、曹洞宗の大本山で広く知られている。 私の実家も曹洞宗で、親戚に曹洞宗の住職も何人かいたりして、なじみがある。ある住職は駒澤大学を出て永平寺で修行をし、お寺を継いでいた。
このお寺には3回訪れたが、いずれも参拝客であふれるばかりだった。観光で訪れる人と、末寺の各寺院が檀家を募って団体で参拝する人が、半々くらいだろうか。受付を通り、講堂に集められた参拝者は、参拝するための数々の注意事項を若い僧侶から説明される。その後は限られた部分ではあるが、自由に境内、堂宇内を見学できる。その注意の中に“修行僧(禅宗では修行僧を雲水ともいう)に声をかけないように”というのがあったと思う。修行僧と参拝者が身近に遭遇するお寺も珍しいのではないか。 なにせ永平寺には常時100名を超える雲水がいるというから、半端ではない。
境内全体を見渡せるような広々とした空間はないが 、山肌にびっしりと建物が建っている風で、そのほとんどが廊下で結ばれている。きりっとした空気が境内全体を支配していて、修行のためのお寺という見本のようなところだった。
お寺について(ホームページなどで得た情報です)
寛元二年(1244)道元によって開創された出家参禅の道場である。大仏寺山にあって、渓声山色豊かな幽邃(ゆうすい)の境に七堂伽藍を中心とした大小70余棟の殿堂楼閣が建ち並んでいる。
道元は正治二年(1200)京都に生まれ、13歳で比叡山横川に出家した。24歳の春、中国に渡り天童山の如浄禅師について修行し、釈迦牟尼仏よ り51代目の法燈を継ぎ、28歳の時に帰朝された。
寛元元年(1243)、鎌倉武士の波多野義重公のすすめにより、越前国志比庄に弟子懐奨禅師等と共に移られた。翌二年、大仏寺を建立、これを永平寺と改称し、ここに一人でも多く真実の仏弟子を育てるための道場が開かれた。以来、禅の仏法は脈々と相承護持され、座禅修行が綿々密々と続けられている。
◎普勧坐禅儀(国宝) 鎌倉時代
○嘉暦の梵鐘(重文) 鎌倉時代
○道元禅師嗣書(ししょ)(重文) 南宋時代
○明全戒牒(重文) 鎌倉時代
○正法眼蔵仏性第三(重文) 鎌倉時代
○後圓融院宸翰(重文) 南北朝時代
|
|
参道 2002/08/11 |
|
|
伽藍 2002/08/11 |
|
|
伽藍 2002/08/11 |
|
|
伽藍 2002/08/11 |
|
|
伽藍 2002/08/11 |
| 日 | 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | ||||||
| 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 |
| 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 |
| 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 |
| 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 |
| 30 | 31 |








