【オリジナルマット工房】スタッフブログ
2010.04.15 見寺録-岩湧寺
「い」で始まるお寺は一応これでおしまいです。12ヵ寺ありました。
岩湧寺(いわわきじ) 融通念仏宗 湧出山 開基:役行者
大阪府河内長野市加賀田町3824
河内長野市は、高野街道が通り、古くから交通の要衝として栄えた。古社寺も多く残り、国の重文指定の有形文化財は83件あって、全国で12番目だそうだ。大阪府では大阪市に次いで多い。
このお寺へは、市の中心から南の方向にある青葉台という新興住宅地を抜け、渓谷の中の細い道を進んでいく。途中、小さな駐車場が点在し、何処も車で一杯だったが、かなり登ったところで空いている所を見つけられた。全くの予備知識無しで来たので、この車の多さは驚いた。後で調べると岩湧山へのハイキングの出発点になっているようだった。
本堂は江戸時代初期に建立されたという。銅板葺の方形造りの屋根を持つ本堂と多宝塔は、大きさがこの狭い境内にちょうど良い具合に配置されているように思われた。庫裏に人の気配もなく、堂内の拝観など望むべきもなかった。
境内に群生する秋海棠(シュウカイドウ)は、ベゴニアの仲間で、江戸時代初期に日本に持ち込まれた帰化植物。とは後で調べてわかったが、初めて見る美しい花だった。文人に好まれ、芭蕉も句を残している。
お寺について(ホームページなどで得た情報です)
役行者が開祖で、創建は大宝年間(701~703)とされる。文武天皇の勅願寺であったと伝えられる。桃山時代は豊臣氏の庇護を受けた。初めは天台宗であったが、明治に融通念仏宗に帰依し現在に至る。
○多宝塔(重文) 16世紀
○本尊大日如来坐像(重文) 平安時代後期
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山門 2006/09/03 |
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本堂 2006/09/03 |
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多宝塔 2006/09/03 |
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多宝塔 2006/09/03 |
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境内に咲く秋海棠(シュウカイドウ) 2006/09/03 |
2010.04.14 見寺録-岩間寺
「い」-も残すところあと2ヵ寺になりました。
岩間寺(正法寺)(いわまでら(しょうほうじ)) 真言宗醍醐派 岩間山 開基:泰澄
滋賀県大津市石山内畑町82
http://www.iwama-dera.or.jp/
西国三十三箇所12番札所 ぼけ封じ観音4番
このお寺は、京都府宇治市との府県境にあって、石山寺からも近い。道標にしたがって県道を離れると、山道に入り、くねくねと登って行く。車止めのある脇に駐車場があった。山門はない。アスファルトの道を歩いていくと、ホテルのような建物がドーンとあって、なんでこんな山奥に?と思わずにいられない。首を傾げて近づくと、岩間寺信徒会館とあった。それほどの大寺には見受けられないのに、信者さんの数も力もすごいことになっているんだろう。
本堂は安土桃山時代に再建されたという。不動堂は平成五年に立て替えられ、総じて伽藍は新しいもののようだ。 本堂前には、銀杏の大木がそびえ立っている。本尊のご開帳が、花山法皇一千年御忌を記念して、平成22年4月17日~5月17日にあるという。前回は昨年19年ぶりに行われたが、その前は平成2年で365年ぶりであったらしい。次はいつか予定はないという。これを見逃したらまずチャンスはないだろう。
お寺について(ホームページなどで得た情報です)
開祖泰澄(タイチョウ)は「越(コシ)の大徳」といわれ、加賀の白山を開いた後、岩間山に来て桂の木で千手観音像を彫り、胎内に念持仏の金銅千手観音像を納めて本尊とし一寺を建立した。これが当寺の始まりとされる。又、大宝二年(702)泰澄は鎮護国家の法師に勅任され、元正天皇の平癒を祈願した功により、養老六年(722)勅命を受けて、岩間山を行脚中桂の大樹より千手観音が現れ啓示を受けて、当山を創建したと伝える。平安期には山岳信仰の霊場であったが、やがて衰退して醍醐寺の末寺となったが、天正五年(1577)正親町(オオギマチ)天皇が再興したという。
雷除観音のいわれは、泰澄大師が雨乞いの祈願を行っていた際、何度も寺が落雷に見舞われ堂塔が焼けてしまった。泰澄は雷を鎮めるため、地上に落ちてきた雷を宝刀で止めて、迷惑をかけてきたことを反省させ、水の乏しい岩間山に水を出させると約束させた。これが「雷神爪堀の霊泉」と呼ばれるようになった。
○木造地蔵菩薩立像(重文) 平安時代後期
○木造不動明王二童子立像3躯(重文) 鎌倉時代
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境内 2005/08/29 |
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本堂 2005/08/29 |
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本堂 2005/08/29 |
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本堂と雷神霊泉 2005/08/29 |
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境内から南方向 2005/08/29 |
2010.04.13 見寺録-今熊野観音寺
今熊野観音寺(いまくまのかんのんじ) 真言宗泉涌寺派 新那智山 開基:空海
京都市東山区泉涌寺山内町32
http://www.kannon.jp/
西国三十三箇所15番札所 ぼけ封じ・近畿十楽観音霊場第1番
洛陽三十三所観音霊場の第19番 神仏霊場巡拝の道第122番
京都市を南北に走る通りの一番東の通り、東大路通りがカーブして東西に走る九条通に変わる辺りに泉湧寺交差点がある。そこを山手の方向に進んで、どん付きに泉湧寺の駐車場がある。このお寺には泉湧寺境内を通って行った。
この辺りには、街の喧騒は全く及ばない。参拝者もさほど多くはないので、広い境内には閑散とした印象さえ覚える。奥には陵(みささぎ)が点在し、森と一体になって静粛な空間を作っている。鳥のさえずりを聞いているいると、混雑した京都の街が嘘のようだ。
お寺について(ホームページなどで得た情報です)
大同二年(807)弘法大師が唐の国で真言密教を学んで帰国した翌年、熊野権現のご霊示を受けて この地に庵をむすんだのが始まりと伝える。弘仁三 年(812)大師は嵯峨天皇から官財を賜わり、勅 旨を奉じて諸堂を造営する。さらに左大臣藤原緒嗣 の発願によって広大な寺域に伽藍の造営が図られた。
白河法皇(1053-1129)のころには、すでにこの地は熊野修験の中心地であり、この京都の今熊野権現とその本地仏とに対する信仰は、九州の宇佐信仰の習合した山岳仏教、九州豊後の国の国東半島を中心とする一帯に平安後期からおこった今熊野権現とその本地仏を信仰する修験に大きな影響を 及ぼした。
東山七条の東の峰を阿弥陀が峰といい、その峰の南西一帯を鳥戸野(とりべの)と呼び、皇族貴族の葬儀や法要がこの地で行われた。平安時代中期以来綿々として皇族方の葬送の場となり、鳥戸野の管掌寺院として皇室との御縁をつなぎ、歴朝の崇敬を得て栄えた。
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鳥居橋 2006/04/29 |
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子護大師像 2006/04/29 |
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本堂 2006/04/29 |
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医聖堂 2006/04/29 |
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医聖堂(多宝塔) 2006/04/29 |
2010.04.12 見寺録-一休寺
一休寺(酬恩庵)(いっきゅうじ(しゅうおんあん)) 臨済宗大徳寺派 霊瑞山 開基:大應
京都府京田辺市薪里ノ内102
http://www.ikkyuji.org/
京田辺市は、京都、大阪、奈良のベッドタウンとしての性格と、近年同志社大学の田辺キャンパスが出来、京阪奈学研都市の新しい街が出来たことにより、隣接の街を含め、開発著しい地区として印象に残る。それらの施設や町並みは、多く丘陵地帯を開発したのだろう、造成されたまま建物が建っていない所などは、殺風景な印象もある。
このお寺を訪れた頃は、幹線道路が整備されていなくて、細い枝道を辿って行った。駐車場は十分広く、有名寺院であるのだろう。総門からまっすぐに伸びた参道は、受付から直角に右に折れて本堂まで続く。この間の風情がたまらなくいい。道は適度に細く、樹木が頭上を被い、石畳脇は苔むしてしっとりとしている。その樹木の多くは楓だ。紅葉すればどうなるか、想像に難くない。
庭園も見事である、臨済宗の寺院は総じて庭園というものに力と神経を注いでいるように見受けられる。同じ禅宗でも、曹洞宗や黄檗宗ではそういう印象を持つことはない。もちろん他の宗派で立派な庭園を持っているところも数多いが、臨済宗の寺院は飛び抜けている。
そういった佇まいにも神経を使う寺院でありながら、ここは一休さんで少し肩の力が抜ける。その一例は庫裏にある一休さんのアニメ。極めつけは、開山堂の奥の溝に架かるほんの小さな石橋に、“このはし渡るべからず”と書いてあったこと。そこへ通りかかったご婦人のグループが、「ここ渡ったらあかんねんてぇー」と、いいながら引き返したのを見てしまった時、脱力感は言い様のないほど私を襲った。 このとんち話を知らないとは・・・・。
お寺について(ホームページなどで得た情報です)
元の名は妙勝寺といい、鎌倉時代、臨済宗の高僧大應国師(ダイオウコクシ)が中国で禅を学び、帰朝後禅の道場をここに建てたのが始まりである。その後、元弘の戦火にかかり復興もならずにいたものを、六代一休禅が康生年中(1455~6)宗祖の遺風を募って堂宇を再興し、師恩に報いる意味で、「酬恩庵」と命名した。禅師はここで後半の生涯を送り81歳で大徳寺住職となったときもこの寺から通ったのであり、文明一三年(1481)88歳の高齢を以て当寺において示寂され遺骨は当所に葬られた。禅師が晩年を過ごしたことにより、「一休寺」の通称で知られるに至った。
○本堂(重文) 永享年間(1429~40) 入母屋造り檜皮葺
○方丈(重文) 慶安三年(1650)
○庫裏 (重文)
○東司(重文)
○浴室 (重文)
○木造一休和尚坐像 (重文) 文明十三年(1481) その他重文あり
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総門 2003/05/25 |
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参道 2004/11/28 |
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庫裏 2003/05/25 |
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庭園 2003/05/25 |
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本堂 2004/11/28 |
2010.04.05 見寺録-一乗寺
一乗寺(いちじょうじ) 天台宗 法華山 開基:法道
兵庫県加西市坂本町821-17
西国三十三箇所26番札所 播磨西国三十三箇所33番
神仏霊場巡拝の道第77番
加西市に限らず、播磨地方は関西の中でゴルフ場が飛び抜けて多い。これは平地と丘のような小山が連なる、地形が影響しているように思う。少々ほこりっぽいが、明るい土地というイメージを持っている。
山道に入って、少し行くとお寺の広い駐車場がある。道を渡って道路脇の広場から境内が始まる。山門はないようだ。 まっすぐ延びる長い石段が印象的。登り切ると本堂にたどり着くが、あいにく解体工事中で、その姿を見ることは出来なかった。残念至極。よって本堂の写真がない。
石段脇の狭い領域に、ひな壇に建つように堂宇が並んでいておもしろい。三重塔は三人官女か。華があって気品がある。
開基の法道仙人は伝説上の人物らしいが、兵庫県南部を中心に、多くの寺院で開基に名を残す。この先いくつ出てくるだろうか。
お寺について(ホームページなどで得た情報です)
百雉元年(650)インドの高僧法道仙人が孝徳天皇の勅願で創建したといわれる。孝徳天皇の病を仙人が、加持祈祷して瞬く間に平癒した。喜ばれた天皇は仙人に建立を命じたという。落慶法要には天皇も行幸され、一乗寺の額を授け、聖観音像を安置して本尊にした。
行基、空海なども訪れており、また、後醍醐天皇の勅命で大講堂が建てられるなどして隆盛を極めたが、度重なる火災に遭い多くの堂宇を失う。しかしその都度再建され今日に至る。
◎三重塔(国宝) 承安元年(1171) 平安時代末期
◎聖徳太子及天台高僧画像拾幅(国宝) 東京、奈良国立博物館等出品
○本堂(重文) 江戸時代(1628) 平成十九年まで解体工事中
○石造五輪塔(重文) 鎌倉時代
○銅造観音菩薩立像 2躯(重文) 秘仏本尊像とその前立ち像
その他重文多数
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門前 2005/11/05 |
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参道 2005/11/05 |
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境内 2005/11/05 |
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三重塔 2005/11/05 |
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常行堂 2005/11/05 |
2010.04.03 見寺録-石山寺
石山寺(いしやまでら) 真言宗東寺派 石光山 開基:良弁
滋賀県大津市石山寺1-1-1
西国三十三箇所13番札所 江州三十三観音1番
近江三十三観音3番 神仏霊場巡拝の道第146番
http://www.ishiyamadera.or.jp/
このお寺は、琵琶湖から流れ出る唯一の川、瀬田川の西にある。観音霊場の有名寺院で、多数の参拝客に対応できるように、お寺の回り全体が整備されている。寺院参拝の他に、紫式部、源氏物語など、古典文学の聖地でもあるんだろうか、学生のゼミ風のグループを見かけた。
すぐ近くに瀬田川が流れ、西に開けた低地から緩やかに丘に上るように境内が広がる。大門は正面に開けた空間が広いので、存在感が一際だ。本来の大きさより余計に大きく感じる。広く長い参道は本堂などの堂宇へ誘うイントロとして申し分ない。伽藍のほとんどは参道の右側にあって、参道を折れると、石段の上にあるのが本堂だ。傾斜地に無理やり建てたような造りで、清水寺などと同じ、床を長い木組みで支える懸造(かけづくり)になっている。このお堂回りにはスペースがないので、全体を見渡せなかった。
本堂から更に登っていくと、我が国最古といわれる多宝塔の鎮座する広場に出る。その奥には月見亭があって、ここから眼下に見る瀬田川が印象に残った。
お寺について(ホームページなどで得た情報です)
聖武天皇が奈良東大寺大仏造立の際、黄金がないのを憂いて良弁を吉野の金峯山に祈らせたところ、金剛蔵王の夢告があり、瀬田の霊山で祈願せよと教示された。良弁は瀬田で老人と出会い、石山のあたりに観音を祀るようにいわれる。そこで如意輪観音を安置したところ、陸奥に金脈が発見され、朝廷に献上した。その後、この像を本尊に堂宇を建立したのが石山寺の起こりと伝える。
実際には、天平五年(761)東大寺の建築用資材の集積地として「石山院」という役所が置かれ、拡張改築の結果、有力諸大寺に肩を並べるにまでなった。
平安京遷都後は、歴代天皇や多くの貴族が参詣し、紫式部が「源氏物語」を綴り、「蜻蛉日記」「和泉式部日記」「枕草子」 「更科日記」などに石山寺の記述を見ることができる。
現在の本堂は永長元年(1096年)の再建。東大門、多宝塔は鎌倉時代初期、源頼朝の寄進により建てられたものとされ、この頃には現在見るような寺観が整ったと思われる。石山寺は兵火に遭わなかったため、建造物、仏像、経典、文書などの貴重な文化財を多数伝存している。
◎本堂(国宝) 慶長七年(1602) 如意輪観世音半跏像(重文)を安置する。
◎多宝塔(国宝) 鎌倉時代初期(1194) 日本最古
◎漢書 高帝紀下、列伝第四残巻(国宝)
◎史記 巻第九十六、九十七残巻(国宝)
○東大門(重文)
○木造如意輪観音半跏像(重文) 平安時代後期
秘仏で、33年に1度の開扉と、天皇即位時の開扉以外は公開されることがない。
○塑造金剛蔵王立像心木(重文)
◎その他国宝指定の書多数
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東大門 2005/08/27 |
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参道 2005/08/27 |
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本堂 2005/08/27 |
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珪灰石 (国の天然記念物) 2005/08/27 |
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多宝塔 2005/08/27 |
2010.03.31 見寺録-石薬師寺
石薬師寺(いしやくしじ) 真言宗東寺派 高富山 開基:泰澄
三重県鈴鹿市石薬師町1
西国薬師四十九霊場33番 三重四国八十八箇所番外
鈴鹿七福神「恵比寿」
三重県鈴鹿市は人口約20万人、鈴鹿サーキットで有名。本田技研工業が工場を置き、工業都市のイメージが濃い。市のホームページにはスペイン語とポルトガル語のページもあり、南米からの研修者や労働者が多いのではないかと思わせる。
このお寺は、国道1号線のすぐ近くにあるが、1号線がバイパスのように整備されているため、小さな枝道に入る交差点は少なく、このお寺へも大回りして行った。駐車場は4.5台程度が止められる空き地のような所。参道は短い。総門を入るとさほど広くはないが、よく整備された境内が広がる。灯籠や堂宇が所狭しと建っていて、ちょっと窮屈な感じがする。
秘仏の石薬師は見られなかったが、広重の浮世絵に描かれた石薬師寺を知ることが出来てよかった。
お寺について(ホームページなどで得た情報です)
神亀三年(726)泰澄大師が当地の森の中で一巨石の出現に出会い、薬師如来が衆生利益のため示現されたものと悟り、一草庵を設け恭敬供養なられた。これが当山の開創である。弘仁三年(812)弘法大師が自ら薬師如来を刻み、開眼供養をなされた。これにより人々の信仰は高まり、嵯峨天皇は勅願所とし、荘厳広大な大寺院を建立され、高富山西福寺瑠璃光院と号し四方崇敬の精舎と仰がれる程であった。
戦国の戦火のあと神戸城主一柳監物により、寛永六年(1629)再建された。建物の規模は桁行三間、梁間四間、寄棟造。本瓦葺きで一間の向拝がつく。市内で最古の寺院建築。
石仏は花崗岩で像高190cm。寺伝によれば、弘法大師が地面生え抜きの石に刻んだという。浅い線彫り、ほおはゆたかで、薬師仏として親しまれてきた。平素は秘仏であるが、十二月二十日の「おすす払い」には、洗い清められる。平安後期の作。
東海道五十三次の宿場の一つで、広重にも描かれる。国道一号線沿いのこぢんまりとした寺。
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総門 2009/03/07 |
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境内 2009/03/07 |
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本堂 2009/03/07 |
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境内 2009/03/07 |
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広重 東海道五十三次 2009/03/07 |
2010.03.30 見寺録-石馬寺
石馬寺(いしばじ) 臨済宗妙心寺派 御都繖山 開基:聖徳太子
滋賀県東近江市五個荘石馬寺町823
湖国十一面観音第9番 近江湖東二十七名刹霊場第16番
役行者大菩薩霊場 聖徳太子霊跡
http://www.eonet.ne.jp/~ishibaji/
石塔寺と同じく、東近江市にある。このまちは平成の大合併で生まれた市で、7つの自治体が合体して誕生した。石馬寺はかつての五個荘町にあった。
このお寺は、近江平野に浮かぶ島のごとく、小高い山の中腹にある。この繖(きぬがさ)山と呼ばれる一帯は、平地に忽然と現れる山々が印象的で、そこには決まって古社寺が鎮座しているようだ。琵琶湖に流れ込む川が、土砂を運び、平地を造った。それが今の肥沃な近江平野になった。昔から暮らしやすい土地だっただろう。近くの山城、安土城跡もかつては三方を琵琶湖に囲まれ、防衛に適した所だったというが、今は真っ平らな平野に囲まれている。
このお寺には、いつものごとく車で行った。かつての山門跡に4、5台分しかない駐車スペースを発見し、運良く止められた。他にもあったかどうか、わからない。参道は、その山門跡から、長い石段が続く。自然石を敷き並べたような石段で、歩きにくいが、手すりが整備してあったのは親切だ。
参拝客は私一人だったけど、書院のインターホンを押して、参拝の旨を告げた。ご婦人が現れ、収蔵庫の鍵を開けて下さった。わざわざ私一人のために、手を休め、奥から出て来て・・・・。拝観料はもちろんお支払いしましたが、これはありがたいことです。ありがたい気持ちはこうやって覚えてる。
収蔵庫の中は所狭しと、古仏像が並ぶが、なんといっても印象に残ったのは、大威徳明王牛上像だ。三面六ぴの姿は異形。まさに異形。足まで六ぴはなかなか見られない造形だ。感動しました。
お寺について(ホームページなどで得た情報です)
繖(きぬがさ)山の山中にある石馬寺は、推古二年(594)徳太子がこの山麓に馬をつなぎ、山上に霊地を探して下山すると馬が石と化して池に沈んだ(現在の石段登り口に沈む駿馬化石)というところから寺号が付けられた。
永禄十一年(1568)信長が佐々木氏を攻めた時、戦禍を受け悉く灰燼に帰す。その後、慶長八年、徳川氏が復興した。
創建以後、法相宗、天台宗と転宗し、正保元年(1644)仙台瑞厳寺の開祖、雲居希贋国師を中興開山とし臨済宗となる。
○十一面観音菩薩立像<2躯>(重文) 平安時代
○二天王立像<4躯>(重文) 平安時代
○大威徳明王牛上像(重文) 平安時代
○阿弥陀如来坐像(重文) 平安時代
○役行者像・前鬼・後鬼像<3躯>(重文) 鎌倉時代
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大門跡 2006/10/22 |
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参道 2006/10/22 |
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参道 2006/10/22 |
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本堂 2006/10/22 |
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書院と庭 2006/10/22 |
2010.03.26 見寺録-石塔寺
石塔寺(いしどうじ) 天台宗 阿育王山 開基:聖徳太子
滋賀県東近江市石塔町860
近江西国三十三箇所22番
蒲生三十三観音27番(観音堂)・28番(石塔寺)
東近江市は平成の大合併で生まれた市で、7つの自治体が合体して誕生した。石塔寺はかつての蒲生町にあった。滋賀県南部、西部地方は朝鮮半島系、特に百済系渡来人の遺構が数多く残っていて、石塔寺もその中のひとつ。
このお寺は、名神高速道路八日市インターを下りて車で約10分、名神八日市カントリークラブを横切ってすぐのところにある。ここには3回訪れている。最初に訪れた1999年12月、大阪は冬晴れで、申し分のない天気に勇んで石塔時を目指したものの、湖東地方は時雨れていた。拝観料を払うときおばさんに聞いてみると、冬の湖東は琵琶湖と鈴鹿山脈の影響で日本海側の気候に近いとのことであった。
ここは参道から一見したところ、右手にある本堂以外目立った堂宇がない。参道からまっすぐ伸びる石段が美しい。拝観料を払って、さて本堂へ先に参拝するか、目の前の長く急な石段を上ろうかと一瞬迷うが、いつも足は自然と石段に向かう。息が上がるのを我慢して上りきったところに開ける空間は、そびえる三重の宝塔の周りに無数の石仏石塔が配置されている異様な風景で、形容しがたい感動がある。歴史的価値のある阿育王塔もさることながら、無数にある石仏石塔群には本当に圧倒される。右手になだらかに下る斜面にも途切れることなく続いている。辺りの松林を一周する小道の脇にも石仏が連なっている。
化野念仏寺でも感じたことだが、どれほどの人が何に対して石を刻むのか。死への恐れか憧れか。人の情念とは信仰とは何だろう。それがここでは量として、数として感じることができる。
お寺について(ホームページなどで得た情報です)
聖徳太子が近江の国に四十八箇寺の伽藍を建立した際、当寺を本願成就寺と名付けたが、400年後、寛弘三年(1006)飛鳥時代より埋没していた仏舎利を納めた阿育王(アショカオウ)塔が発掘されると、新たに七道伽藍を建て改め、石塔寺と称した。
石塔は、実際には奈良時代前期(7世紀)頃に、朝鮮半島系の渡来人によって建立されたとみるのが通説である。この石塔は、日本各地にある中世以前の石塔とは全く異なった様式をもつものであり、朝鮮半島の古代の石造物に類似している。湖東地区が渡来人と関係の深い土地であることは、『日本書紀』に天智天皇八年(669)、百済(当時すでに滅亡していた)からの渡来人700名余を近江国蒲生野(滋賀県蒲生郡あたり)へ移住させた旨の記述があることからも裏付けられ、石塔寺の三重石塔も百済系の渡来人によって建立されたものであるとの見方が一般的である。
鎌倉時代には、三重石塔(伝・阿育王塔)の周りの境内に、五輪塔や石仏が多数奉納されるなど、以後、多くの人々の信仰を集め、石塔石仏を奉納されるようになる。時を重ねて無数の数(四万八千)になるが、現在の整然たる姿は昭和になってからである。
○阿育王塔(重文) 飛鳥時代
○石造宝塔(重文) 正安四年(1302)
○石造五輪塔2基(重文) 嘉元二年(1304)および貞和五年(1349)
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参道 2008/11/29 |
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山門 2008/11/29 |
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本堂 2002/08/31 |
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阿育王塔 2008/11/29 |
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石塔、石仏 2008/11/29 |
2010.03.25 見寺録-石観世音
石観世音(いしかんぜおん) 曹洞宗 大悲山 開基:空海
福井県三方上中郡若狭町三方22-1
北陸三十三観音霊場7番札所
福井県若桜町は若狭湾の中程に位置し、三方五湖の景勝地が有名。小学生の頃、一度いったことがあって、レインボーラインからの絶景が記憶に残っている。2005年ラムサール条約に登録された。淡水湖から汽水湖、海水湖まで5つの湖にはそれぞれはっきりとした特徴があるという。
このお寺は三方五湖の東南に位置し、国道27号線から東に入る細道を上ると参道に出会う。右手に空き地があって、そこの車を止めた。本堂まで行ってわかったことだが、本来の駐車場は本堂脇にあった。でもここに車を止めると、参道部分を味わうことが出来ない。空き地に止めて正解だった。
参道は石段と石畳の道が段々と続く。少し神社のような雰囲気。禅宗の寺院とは思えないほど、民間信仰が色濃く、 祈願奉納の参拝者が絶えないようだった。特に、御手足堂に奉納された手形、足形は圧倒される量で、お寺が奉納用に用意するものから、オリジナルなもの、はてはギブスまで様々だ。何十年も経ったような古いものもある。手足に病のある人々の、苦しみから逃れたい思いや願いが一つひとつに込められている。それがここに集中していて息をのんでしまう。それどころか息苦しささえ覚る。写真を撮るのは憚られた。
お寺について(ホームページなどで得た情報です)
創建は延暦年間と伝える。本尊は弘法大師が一晩のうちに作り上げたといわれる観世音菩薩像。この観音像には右手がなく、弘法大師が、朝を告げる鶏の声を聞いて右手だけを刻み残して去ったともいわれている。手足の病気やケガにご利益があると信じられ、年間を通して約10万人の参拝者が訪れる。この片手観音は33年に一度開帳され、ふだんでは見ることが出来ない秘仏として大切に安置されている。
現在の本堂は明治32年に再建されたものである。
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参道 2008/01/06 |
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参道 2008/01/06 |
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参道 2008/01/06 |
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本堂 2008/01/06 |
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境内 2007/11/24 |
2010.03.24 見寺録-斑鳩寺
斑鳩寺(いかるがでら) 天台宗 開基:聖徳太子
兵庫県揖保郡太子町鵤709
新西国三十三箇所32番札所 西国薬師四十九霊場23番
播州薬師霊場18番 聖徳太子霊跡28番
ここ太子町は、町名が示すように聖徳太子と縁が深く、斑鳩寺にいたっては、決定的に法隆寺と深淵のつながりを示している。私の住む八尾市には、中の太子といわれる大聖勝軍寺とうお寺があって、太子信仰で知られているが、この斑鳩寺はその代表格だろう。
近年、聖徳太子は実在しなかったという説が、史実として確からしいという。信仰とどう関わってくるんだろう。
参道は現在はなかったように思う。仁王門には仁王像が安置されているが、その造形が独特である。頭と胴体のバランスがかつて見たどの仁王像とも違う。頭でっかちで、 胴の部分もたくましさに欠ける。一言で言えばリアリティーがない。筋肉の付き方など滑稽なほど稚拙。忘れられない仁王さんだ。
境内は適度に広く、三重塔が威厳を放つ。この三重塔はデカくて力強い。約25mもあるという。三重塔では薬師寺を除けば日本最大級か。
このお寺には他では見られないおもしろい建物がある。それが聖徳殿にくっつく奥殿だ。この奥殿は大正五年(1916)に建てられ、法隆寺の八角円堂、夢殿を模していることは明白。無理矢理聖徳殿に合体させたようでおもしろい。内部は一般に公開されていないようだが、チャンスがあれば是非見てみたい。
お寺について(ホームページなどで得た情報です)
推古天皇十四年(606)、35歳の聖徳太子は天皇に請われ、三日間にわたり勝鬘経を講じたといわれている。天皇はその妙味に感動し、賞として聖徳太子に対し播磨国揖保郡の土地360町歩を与えたという。
聖徳太子は当時住んでいた大和国斑鳩宮からこの地に来て斑鳩莊と名付け、伽藍を建設したと伝えられており、これが、斑鳩寺の創始とされている。
かつては、七堂伽藍をならべた大寺で壮麗を極めていたが、天文十年(1541)に赤松・山名の争乱により尽く焼失した。その後、赤松氏などの発願で円勝寺の昌仙法印によって漸次再建された。 当寺は創建から約千年間は法隆寺の支院であったが、火災再建後は昌仙法印が天台宗の僧あったため、天台宗の寺院となる。
○三重塔(重文) 永禄八年(1565)
○釈迦如来坐像・薬師如来坐像・如意輪観音坐像(重文) 室町時代
○木造日光・月光菩薩立像 (重文)
○木造十二神将立像 8躯 (重文)
○紺紙金泥釈迦三尊十六羅漢像 5幅(重文)
○絹本著色聖徳太子勝鬘経講讃図 (重文)
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仁王門 2007/11/24 |
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仁王 2010/03/22 |
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本堂 2007/11/24 |
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三重塔 2007/11/24 |
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奥殿 2007/11/24 |
2010.03.18 見寺録-医王寺
医王寺(いおうじ) 高野山真言宗 国分山 開基:行基
石川県加賀市山中温泉薬師町リ-1
北陸三十六不動霊場第27番 奥の細道札所
日本三薬師のひとつ。
このお寺は、加賀温泉郷の一つ山中温泉の街を見下ろす高台に立つ。山中温泉は平安時代からその存在が知られ、鎌倉期の武将や、松尾芭蕉も湯治に訪れたという。 また九谷焼の元祖、古九谷の産地であった。
参道は、温泉街から急な階段を上って国道の下をくぐっているが、車で来た私は駐車場がなかったので国道横に止めてしまい、その部分を体験できていない。もったいないが、参道の途中から参入する。
そこから本堂までは一直線に続く。まず最初に目にするのは甘露水なる湧き水。甘露水といえば、十一面観音などが持つ水瓶(すいびょう)の中に入っているとされる御清水。更に進むと、途中、いろいろな石仏が参拝者を迎える。 行場のようなところに不動明王が鎮座し、密教系の寺院であることがわかる。 本堂は近年建立されたもので、不思議な造形をしている。密教系の怪しさがある。
お寺について(ホームページなどで得た情報です)
山中温泉にある行基開基と伝わる古刹。山中温泉を発見した行基は、国分寺を建立、薬師の尊像を安置したと伝えられている。鎌倉期に能登国鳳至郡大屋荘の地頭長谷部信連が再興、行基作であろう薬師如来像を掘り出し、国分山医王寺を創建した。
多宝塔など現在の建物は昭和初年の大火で消失後、昭和三十三年に再建されたもの。京都の蛸薬師、出雲の一畑薬師と並び日本三薬師のひとつ。通称、お薬師さん。
○陶製金剛童子立像(重文)
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参道 2009/04/11 |
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滝不動 2009/04/11 |
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地蔵 2009/04/11 |
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本堂 2009/04/11 |
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本堂 2009/04/11 |
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