【オリジナルマット工房】スタッフブログ
2010.08.06 見寺録-延暦寺
「え」で始まるお寺はこれで一応お終いです。13ヵ寺ありました。
延暦寺(えんりゃくじ) 天台宗総本山 比叡山 開基:最 澄
滋賀県大津市坂本本町4220
新西国三十三箇所18番札所(横川中堂) 西国薬師四十九霊場49番 播州薬師霊場特別札所 東海四十九薬師特別札所 神仏霊場の道150番
http://www.hieizan.or.jp/
このお寺は、言わずと知れた比叡山の山頂付近にある、天台宗の開祖最澄が開いた天台宗の総本山。平安京の昔、都を守るために、鬼門にあたる比叡山にお寺を建立させてという話を聞いたことがある。京都市に住む人にとっては比叡山は身近で、市内のどこからでもその威容を望むことが出来る。冬、比叡山は雪化粧をよく見せる。
京都市の出町柳から叡山電鉄を終点の八瀬で下りて、ケーブルカーとロー プウエーで山頂へ。軽いハイキングのつもりで山道を1kmほど歩くと、延暦寺の塔頭がちらほら見えてくる。延暦寺の中心、根本中堂へは更に1kmほど歩く。境内があまりにも広いので、さらっと参拝しただけでは全体像をつかむのは不可能。山内は三つに分かれ、「東塔(とうどう)」「 西塔(さいとう)」「横川(よかわ)」とそれぞれ呼ばれる。特に横川は 根本中堂がある東塔から(直線距離で約3km)離れているため、バスで移動した。
延暦寺の伽藍は創建以来何度も焼失している。国宝の根本中堂も江戸初期に再建されたものだ。新西国の札所のある横川中堂は国宝であったが、落雷で焼失し、1971年鉄筋コンクリートで再建された。このように、割合新しい建物が多く、古くても室町期のものだったりする。
根本中堂では拝観受付をすませ、回廊を通って外陣へ参拝する。内陣はそれより3mほど下に位置し、護摩を焚く護摩壇がちょうど外陣と同じくら いの高さだったろうか。ある時、何かの法要に出会した事がある。10名ほどの僧侶が内陣に入陣してきた。読経が始まり、護摩が焚かれた。その読経の響くこと。腹の底に、心の底に。そして茫然自失に陥った。ふと我に返ってみると、魂をどこかへ持って行かれたような、そんな状態だった 。
延暦寺で忘れてならないのが、籠山行、千日回峰行といった修行だろう。人を超人(仏)に変える、想像を絶する修行だ。修行の段階でいろんな行が行われるが、その一つに90日間阿弥陀如来の周囲を歩き続け、その間横になることは許されず、一日数時間手すりに寄りかかって仮眠をとるといった行がある。千日回峰行の後半では、100日間、比叡山から京都市内を回る全行程84Kmに及ぶ信じられない修行がある。これらの修行は、生きながら不動明王になるという、天台密教独特の風習といえるだろう 。全く信じられない体力と精神力だ。これだけのアスリートが他にいるだろうか。
お寺について(ホームページなどで得た情報です)
近江国分寺で得度し、奈良東大寺の戒壇院で具足戒を受けた最澄(伝教大師)が、理想の布教地を比叡山に求め、延暦七年(788)に山上に庵を結び、自ら刻んだ薬師如来像を本尊として安置し、「一乗止観院」と称したのが延暦寺の創始であると伝えられている。
桓武天皇の平安遷都に伴い、御所の鬼門の方向にある最澄上人の草堂が 国家を鎮護するための官寺に選ばれ、最澄は天皇のための侍僧の一人に加えられたという。最澄は延暦二十三年(804)に唐に渡り、翌年に帰国する。帰国後、天台宗を開き「一乗止観院」を「根本中堂」に改称した。
最澄のあと、比叡山から数多くの名僧高僧を輩出しており、法然、親鸞、道元、日蓮など著名な僧もすべてここで修行した。目立った高僧を輩出 しなかった空海の高野山とは対照的である。 元亀二年(1571)には織田信長の軍勢によって比叡山全山すべて焼 き払われた。建物で残ったのは西塔にある瑠璃堂のみといわれており、僧侶、それに坂本の町から逃げてきた一般の人合わせて二千人以上の人々が焼殺、惨殺されたという。その後、秀吉、家康によって寺は復興された。
◎根本中堂(国宝) 徳川家光の命で寛永一九年(1642)に竣工。
◎伝教大師入唐牒(国宝)
◎伝教大師将来目録(国宝)
○大講堂(重文)
○戒壇院(重文) その他重文多数。
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根本中堂 2006/03/25 |
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戒壇院 2006/03/25 |
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山王堂 2006/03/25 |
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横川中堂 2007/09/09 |
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山頂と坂本を結ぶ日本最長のケーブルカー 2007/09/09 |
2010.07.21 見寺録-延命寺
延命寺(えんめいじ) 真言宗御室派 薬樹山 開基:空海
大阪府河内長野市神ヶ丘492
河内長野市は、岩湧寺以来2度目の登場。高野街道が通り、古くから交通の要衝として栄えた。古社寺も多く残り、国の重文指定の有形文化財は83件あって、全国で12番目だそうだ。大阪府では大阪市に次いで多い。
延命寺へは、美加の台という新興住宅地を抜け、石見川沿いの道へ出て、上流へ少し行く。山門の右脇に車を止めるスペースがある。
この辺りは、自然公園として整備されているようで、駐車スペースは立派なトイレの前だった。
参道から、山門を抜けて一直線に延びる石畳の道。起伏のない一直線の石畳の先に毘沙門堂と本堂がある。その長さは50m程だろうか。遠近感の利いた景観を作っている。自然に囲まれた静寂に感謝。
自然公園へと登る遊歩道を行くと、途中、延命寺の凍り付いた蓮池があった。蓮池をぐるりと回る小道には石仏が置かれていた。
お寺について(ホームページなどで得た情報です)
弘法大師空海がこの地に巡回したときに、自ら地蔵菩薩を刻んで本尊としたのが始まりと伝えられる。その後、延宝五年(1677)当地に生まれた浄厳和尚が高野山に修行ののち中興し、薬樹山延命寺と号し、現在に至っている。 延命寺のあるこの地は昔「おにしみ」と呼ばれ、平安期には「小仁深」と、中古には「鬼住」の文字をあて、周辺の道標にも「おにすみえんめいじ」と記されたものがあり、鬼伝説が残る。
○木造釈迦如来立像(重文)
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山門 2006/01/09 |
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境内 毘沙門堂 2006/01/09 |
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本堂 2006/01/09 |
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鐘楼 2006/01/09 |
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蓮池の石塔 2006/01/09 |
2010.07.02 見寺録-円通寺
円通寺(えんつうじ) 曹洞宗 永谷山 開基:足利義満
兵庫県丹波市氷上町御油983
丹波市は平成の合併で生まれた市で、旧氷上郡6町がその母体となっている。「丹波」は旧国名であるが、現在は兵庫県と京都府にまたがっているため、京都では平成の合併で、京丹波町という町が生まれた。旧来丹波と呼ばれた地域がそれぞれ丹波を主張したのでちょっとややこしい。
このお寺のある旧氷上町は、市の中心地域で、舞鶴若狭自動車道春日インターから北近畿豊岡自動車道に乗り、氷上インターで下りて行く。県道7号線を5Kmほど北上し、左折して約1Km行くと円通寺の駐車場に着く。
この辺りは加古川に沿って田園地帯が広がっている。その平地が山に変わる境目に円通寺は建っている。
境内全体がよく手入れされて、公園のような印象を持った。自然石で組んだ石段もいい味を出している。山門には仁王像(金剛力士像)が安置してあるが、その仕方が見慣れたものと違っていた。仁王像が安置してある門は仁王門と呼ぶこともあって、普通安置する場所は門と一体になっている。円通寺のこの門の左右には新たに仁王像を安置する建物を建てたようになっていた。仁王像も慶派で見慣れた造形とは大きく違っていた。ひょっとすると金剛力士像ではないかも知れない。
門をくぐると池があって、鴨が3羽泳いでいた。池に架かる橋を渡って石段を登ると本堂にたどり着く。正面に本堂、右脇に大きな庫院が曲屋のように建っていて印象に残る。
ここは紅葉で名高く、シーズンには様々なイベントが行われるという。
お寺について(ホームページなどで得た情報です)
永徳二年(1382)正月、室町幕府3代将軍将軍足利義満が後円融天皇の勅命により創建した曹洞宗の名刹であり、年号の首字をとって『永谷山』と号し、天子の宝号の1字をとって『円通寺』と名付け勅願所と定められた。 全盛期には200余りの末寺を有して、丹波はもとより但馬・播磨・摂津にかけて君臨した中本山。戦国時代には一時衰退したが、現在の本堂、庫院等の建築物は江戸時代に再建されたもの。紅葉の名勝地として知られる。 本尊は如意輪観世音菩薩像で、後小松天皇より下裏されたものと伝える。
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参道 2008/04/19 |
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山門 2008/04/19 |
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本堂 2008/04/19 |
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庫院 2008/04/19 |
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池 2008/04/19 |
2010.06.30 見寺録-円成寺
円成寺(えんじょうじ) 真言宗御室派 忍辱山 開基:虚瀧
奈良県奈良市忍辱山町1273
大和十三仏12番
名勝:円成寺庭園 平安時代後期の作庭
このお寺は、奈良市の北東、いよいよ京都府との府県境が迫ってきた辺りに位置する。奈良市でもゴルフ場以外、開発ががあまり行われていないところで、 のどかな山間の小さな集落が点在している。
山号の「にんにくせん」。初めて聞いた時ドキッとしたのを覚えている。ニン ニクに縁があるのか、はたまた人の肉をうんぬんするのか、と。よほどお寺と 縁遠い言葉の響きがあった。酒池肉林という退廃的なイメージすら持ってしまった。「忍辱」とはどんな苦難にも耐えるということらしい。
国道脇の無料駐車場に車を止め、道を横切る。この道は大小様々なカーブがあり、信号もほとんどないから、車やバイクはドライブを楽しむにはもってこいで、法定速度を超えてビュンビュン飛ばしている。特にバイクは100km/hほどでかっ飛ばしているやつがいるので、見通しの利かないここを横断するのは気をつけて。
道を横切ると標石があって、少し進むといきなり庭園が現れる。堂宇までのイントロがいきなり名勝庭園とは、なかなか出会えない感動がある。
池に対峙した楼門から拝観できると思いきや、通用門からの拝観となる。この楼門は檜皮葺で、非の打ち所がないほど景観にとけ込んでいる、本堂は縁が深い造りになっていて、階段両脇に舞台のような広い板の間があり独特の意匠を見せる。本堂内は自由に拝観でき、様々な寺宝を堪能できた。多宝塔内に安置されている大日如来にも出会えるが、ガラス越しであったことが残念であった 。
お寺について(ホームページなどで得た情報です)
天平勝宝八年(756)聖武・孝謙両天皇の勅願によって唐僧虚瀧(コウロウ)和尚の開山と伝えられているが、史実的には平安中期の万寿三年(1026)に命禅上人が再興して十一面観音を祀り、その後1156年京都仁和寺の寛遍僧正が東密忍辱山流をおこして寺勢を上げた。しかし、応仁の乱(1466)の兵火で伽藍の大半が焼失するも、程なく栄弘師が再興した。江戸時代は寺中23寺を有する大寺であったが、維新後寺領没収で今の境内と建物を残すのみとなった。境内の東入口にある勧請縄とよばれる注連縄は、五穀豊穣を祈る〆縄で、1月10日に謹製し中央の飾り物は陰陽を表すという 。
◎大日如来坐像(国宝) (1176年)平安時代末期 現存する運慶最初期の作
◎春日堂・白山堂(国宝) 鎌倉時代初期 最古の春日造社殿
○本堂(重文) 室町時代 四本柱に聖衆来迎二五菩薩が描かれ、藤原時代の阿弥陀堂を現している。
○楼門(重文) 応仁二年(1468)
○阿弥陀如来坐像(重文) 本尊 平安時代後期
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楼門 2010/01/24 |
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本堂 2010/01/24 |
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多宝塔 2010/01/24 |
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春日堂・白山堂 2010/01/24 |
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庭園 2010/01/24 |
2010.06.28 見寺録-円鏡寺
円鏡寺(えんきょうじ) 高野山真言宗別格本山 池鏡山 開基:空海
岐阜県本巣郡北方町北方1345
西美濃三十三霊場3番 東海三十六不動尊32番
美濃四国八十八ヶ所51番 美濃三弘法1番
北方町は南西部、濃尾平野の北部に位置し、面積は岐阜県内で一番小さいが、人口密度は県下有数という。近隣の岐阜市や、大垣市には30分以内で行くことが出来、住宅都市化が進んでいる。人口も増加傾向。周り一帯平地ばかりで起伏がないようだ。
円鏡寺へは、名神高速大垣インターを下りて大垣市へ出、国道21号線岐大バイパスを東へ進み、県道23号線へ左折して入る。北上すること約4Km、北方町役場を目指せばすぐ近くだ。役場、公園、寺共通?の無料駐車場に車を止めた。
円鏡寺は小学校や中学校にも隣接していて、行政、文教地区に広い寺域を有している。公園のように整備されたところもあって、憩いの場になっているようだ。
立派な楼門は檜皮葺で、軒先がつんとして、軽やかだった。仁王像もしっかり立ち誇り、重厚さも兼ね備えている。
楼門を入ると回遊庭園のような境内が広がる。太鼓橋を渡って本堂に着く。この建物には縁がなく、この大きさの堂宇にしては珍しいのではないだろうが。堂内には入れないようだった。本堂右手には平成に建立された三重塔が建つ。
道を隔てて向側には、本坊などこのお寺の実務を行う施設が建ち並んで、寺格の高さを物語る。美濃の正倉院とも呼ばれるくらい、多くの文化財があるというが、金剛力士像以外のそれらを拝むことは出来なかった。
お寺について(ホームページなどで得た情報です)
弘仁二年(811)、嵯峨天皇の勅命により空海が創建したという。不動明王を本尊とし、定照寺と名づけられる。後に、補陀落上人により聖観音菩薩が安置されたことにより補陀落院と改称されたという。 永延二年(988)、良祐により現在の伽藍の元が築かれ、一条天皇より「池鏡山円鏡寺」の名を授かる。寺名は境内に池を造った際に明鏡が出土、これを献上したことによる。享保一六年(1731)の火災で観音堂が焼失。寛保元年(1741)観音堂が再建された。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康などの歴代権力者からの保護を受けており、朱印状も受けている。大正三年(1914)楼門が修築された。 美濃の正倉院とも言われる。
○楼門(重文) 永仁四年(1296)建立 入母屋造、檜皮葺 明治神宮の南楼門のモデルとなったという。
○木造聖観音立像(重文) 平安時代
○木造不動明王立像(重文) 平安時代
○木造金剛力士像(重文) 鎌倉時代 運慶の作
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楼門 2008/12/20 |
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境内 2008/12/20 |
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本堂 2008/12/20 |
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三重塔 2008/12/20 |
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本坊 2008/12/20 |
2010.06.15 見寺録-円教寺
円教寺(えんきょうじ) 天台宗 書寫山 開基:性空
兵庫県姫路市書写2968
西国三十三箇所27番札所 播磨西国三十三箇所1番札所
播州薬師霊場16番 神仏霊場巡拝の道 第75番
http://www.shosha.or.jp/
姫路市は県下2番目の都市で、人口は約53万人。JR姫路駅の南は、行政の中心と臨海工業地帯が広がり、北は姫路城や美術館、書写山などがあって、南北では全く違った印象がある。
このお寺は書写山と呼ばれる山の頂上付近にあって、寺域は広大だ。塔頭も数多い。2度参拝したが、どちらも麓から徒歩で登った。371メートルとさほど高い山ではないので、気持ちよく登れる。ちょっとチャレンジングな気もしたが、途中、眼下に姫路市がほん近くに遠望でき、印象的だった。
2003年公開のラストサムライのロケ地となったことで、有名になったが、その映画自体は、日本以外でのロケやセットが日本離れしていて、ちぐはぐな印象を持った。食堂でのシーンは印象的で、この巨大木造建築物の状態を良く表していたと思う。
西の比叡といわれるように、伽藍の大きさ規模も桁外れで、現在まで本当に良く残っていると感心させられた。昭和の頃?ロープウエイの山上駅から摩尼殿辺りまで馬車が人を運んでいたという。帰りはロープウエイを使って下山した。
お寺について(ホームページなどで得た情報です)
康保三年(966)、性空(しょうくう)上人によって開かれる。「この山に登る者は菩提心を起こし、また峰に棲む者は六根を浄められる」という文殊菩薩のお告げとおり、摩尼殿上の白山に於いて、上人は六根清浄の悟りを得た。986年、花山法皇の勅願により当山の中心となる大講堂は創建される。この時円教寺号を賜った。その後上人の徳を慕い利益(りやく)を得ようという人々の多くの信仰を集め、「西の比叡山」とも称されるように僧侶の修行の道場として栄えてきた。
○大講堂(重文) 室町時代初期
○常行堂(重文) 創建不詳
○食 堂(重文) 承安四年(1174) 長さ約40mで、二階建て建築では他に類をみない。
○護法堂(重文) 室町時代末期
○六阿彌陀如來坐像(重文)
その他重文多数。
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登山道 2005/11/26 |
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仁王門 2005/11/26 |
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摩尼殿 2005/11/26 |
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大講堂 2005/11/26 |
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食堂(じきどう)(二階部分) 2005/11/26 |
2010.06.11 見寺録-家原寺
家原寺(えばらじ) 高野山真言宗 一乗山 開基:行基
大阪府堺市西区家原寺町1-8-21
西国薬師四十九霊場第15番 おおさか十三仏霊場第3番 仏塔古寺十八尊第1番
http://homepage1.nifty.com/ebaraji/ 文殊菩薩を本尊とし、合格祈願の寺として名高い。
堺市は大阪市の南に隣接した都市で、人口は約83万人。政令指定都市になっている。古代より日本にとって大きな役割を担っていた。大仙古墳に代表される古墳群が強大な権力があったことを象徴し、中世では、国際貿易都市として、世界にその名が知られていた。
家原寺は、何処までも続くような住宅地の中にあって、ちょっとほこりっぽいが、寺領は広い。古くからの堂宇に加え、近代的な施設も多くお寺のいけいけ路線が垣間見られる。日本最大という護摩炊きもあれば、小高い丘に建つ三重塔は平成になって建てられたという。
祈願寺で名高いこのお寺は、3年前の冬、娘の合格祈願に参拝した。山門から一直線に約100m、石段を少し登ったところに本堂が建つ。周りに高い建物がないので、境内に入ると大都市の中にいるという感じがしない。
遠目に本堂が見え、屋根以外は白く輝いて見えた。近づくと本堂の柱といわず側板、扉などあらゆるところに白いハンカチが張られている。それも幾重にも幾重にも・・・重なって。合格祈願に訪れた参拝者が、絵馬ならぬハンカチを買い求め、願い事を書いて本堂の建物に直に画鋲で貼っている。別名「落書き寺」といわれる所存だ。これだけの数の願いが叶うことを、このお寺が求められているということ。煩悩渦巻く世界を目の当たりにした。
祈願叶って我が子は志望校へ進学し、お礼参りに4月再訪した。
お寺について(ホームページなどで得た情報です)
この寺は戦後単立寺院となったが、もとは真言宗金剛峰寺の末寺で、所在地であるかつての地名に因んで石川寺、磯長寺などと称されていた。また、聖徳太子の磯長(しなが)墓を祭祀守護する性格の寺院であることから太子寺、御廟寺、聖霊院の号もあり、四天王寺、法隆寺とならんで太子信仰の中核をなした寺院である。
寺伝によると推古天皇三十年(622)聖徳太子の陵墓を守護し永く追福を営むために一堂を構えたのが当寺の始まりで、神亀元年(724)聖武天皇の勅願によって創建されたといわれる。
現在の伽藍は、天正二年(1574)信長の兵火で焼失したあと再建されたものである。
○聖霊殿(重文) 豊臣秀頼が慶長八年(1603)再建した
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山門 2007/01/29 |
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本堂 2007/01/29 |
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2007/01/29 |
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本堂内外陣 2007/01/29 |
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三重塔 2007/01/29 |
2010.06.04 見寺録-永保寺
永保寺(えいほうじ) 臨済宗南禅寺派 虎渓山 開基:夢窓疎石
岐阜県多治見市虎渓山町1-40
名勝:永保寺庭園
http://www.kokei.or.jp/
多治見市は愛知県と接し、名古屋中心部まで電車で30分という利便性から、名古屋のベッドタウンとして栄える。また、志野焼、織部焼など美濃焼の産地として知られる。
永保寺はずいぶん前から行きたいと思っていたお寺だ。地図には鉛筆でぐるぐると丸がしてあって、何気なく地図を見てもこのお寺を意識するよう、何年か前の自分が仕組んでいた。
永保寺へは、中央道多治見インターを下りて行く。インター出口直ぐを左へ進むと、程なく住吉町5の交差点に出合う。交差点を左折して虎渓山町に入ると永保寺の案内があって迷うことはない。中央本線の踏切の手前に広い無料駐車場があって車を止めた。
アスファルトの道を少し行けば、立派な塔頭が2、3あって大きな寺院だという見当が付く。この辺り、参道という風情ではない。この経路から参拝すると山門はない。道が下ったところに永保寺の境内が広がっている。いきなり名勝庭園の中に入り込むという嗜好にビックリだ。まず目にはいるのは屋根の軒が大きく反り返った観音堂。この唐様の観音堂、反りはちょとやりすぎではないかと思うほどの意匠。檜皮葺のためか軽やかで、尖端が鋭く尖って上方にするっと消えていく感じ。ダリの気取った口ひげを連想した。
観音堂から池をぐるっと回って、対岸から眺めれば、池には太鼓橋が架かって水面に姿を写す。脇には岩肌を露わにした小山があり、頂上に祠が建っている。更に進めば、少し奥まったところに観音堂と同じ唐様の開山堂がある。それら全体が庭園をなしているのだが、実に行き届いたデザインですばらしい。
臨済宗の寺院は、押し並べて庭園を造形しているように思う。どうしてここまで庭園造りにエネルギーを注ぐのか。大きな謎だ。
お寺について(ホームページなどで得た情報です)
山号の虎渓の名称は景色が中国廬山の虎渓に似ていることによるといわれる。正和二年(1313)岐氏の招きをうけた夢窓疎石が、長瀬山の幽境に庵居しこの禅寺を開創したが、文保元年(1317)夢窓は同門の元翁本元(仏徳禅師)に寺の後事を託して上京した。 建武二年(1335)夢窓が臨川寺(京都)開山となったとき、永保寺開山は元翁本元に改められた。元翁の寂年は元弘元年(1331)で、開山となった時にはすでに遷化されていたが、元翁の塔所である南禅寺正的庵末寺の五山派寺院として展開した。しかし文明期以後には衰微したが、江戸時代の延享三年(1746)には末寺28ケ寺、孫末寺1ケ寺を有し、山内塔頭の輪番によって住持をつとめ護持されてきた。
◎観音堂(国宝) 南北朝時代 禅宗様仏殿
◎開山堂(国宝) 南北朝時代
○絹本着色千手観音図(重文)
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観音堂 2009/10/18 |
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観音堂 2009/10/18 |
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名勝庭園 2009/10/18 |
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開山堂 2009/10/18 |
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反りの鋭い屋根の観音堂 2009/10/18 |
2010.06.02 見寺録-永平寺
永平寺(えいへい じ) 曹洞宗 吉祥山 開基:道元
福井県吉田郡永平寺町志比5-15
永平寺町は、平成の大合併で永平寺町、松岡町、上志比村の2町1村が合併して大きくなった。福井市の東部に位置し、福井市に接している。東西に横断するように大きな九頭竜川が流れ、流れに沿って” えちぜん鉄道”が走っている。
このお寺は、曹洞宗の大本山で広く知られている。 私の実家も曹洞宗で、親戚に曹洞宗の住職も何人かいたりして、なじみがある。ある住職は駒澤大学を出て永平寺で修行をし、お寺を継いでいた。
このお寺には3回訪れたが、いずれも参拝客であふれるばかりだった。観光で訪れる人と、末寺の各寺院が檀家を募って団体で参拝する人が、半々くらいだろうか。受付を通り、講堂に集められた参拝者は、参拝するための数々の注意事項を若い僧侶から説明される。その後は限られた部分ではあるが、自由に境内、堂宇内を見学できる。その注意の中に“修行僧(禅宗では修行僧を雲水ともいう)に声をかけないように”というのがあったと思う。修行僧と参拝者が身近に遭遇するお寺も珍しいのではないか。 なにせ永平寺には常時100名を超える雲水がいるというから、半端ではない。
境内全体を見渡せるような広々とした空間はないが 、山肌にびっしりと建物が建っている風で、そのほとんどが廊下で結ばれている。きりっとした空気が境内全体を支配していて、修行のためのお寺という見本のようなところだった。
お寺について(ホームページなどで得た情報です)
寛元二年(1244)道元によって開創された出家参禅の道場である。大仏寺山にあって、渓声山色豊かな幽邃(ゆうすい)の境に七堂伽藍を中心とした大小70余棟の殿堂楼閣が建ち並んでいる。
道元は正治二年(1200)京都に生まれ、13歳で比叡山横川に出家した。24歳の春、中国に渡り天童山の如浄禅師について修行し、釈迦牟尼仏よ り51代目の法燈を継ぎ、28歳の時に帰朝された。
寛元元年(1243)、鎌倉武士の波多野義重公のすすめにより、越前国志比庄に弟子懐奨禅師等と共に移られた。翌二年、大仏寺を建立、これを永平寺と改称し、ここに一人でも多く真実の仏弟子を育てるための道場が開かれた。以来、禅の仏法は脈々と相承護持され、座禅修行が綿々密々と続けられている。
◎普勧坐禅儀(国宝) 鎌倉時代
○嘉暦の梵鐘(重文) 鎌倉時代
○道元禅師嗣書(ししょ)(重文) 南宋時代
○明全戒牒(重文) 鎌倉時代
○正法眼蔵仏性第三(重文) 鎌倉時代
○後圓融院宸翰(重文) 南北朝時代
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参道 2002/08/11 |
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伽藍 2002/08/11 |
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伽藍 2002/08/11 |
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伽藍 2002/08/11 |
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伽藍 2002/08/11 |
2010.05.07 見寺録-叡福寺
叡福寺(えいふくじ) 単立(真言宗系) 磯長山 開基:聖武天皇
大阪府南河内郡太子町太子2146
新西国三十三箇所客番 河内西国三十三箇所21番
仏塔古寺十八尊第2番 聖徳太子霊跡6番 神仏霊場巡拝の道57番
太子町は大阪平野の南東部に位置する。古代大和の飛鳥(遠つ飛鳥)から、難波津へ通じた日本最古の官道、竹内街道が通り、近つ飛鳥と呼ばれた。また「王稜の谷」とも呼ばれるように、敏達・用明・推古・孝徳天皇など多くの古墳がある 。大阪府有数の歴史の宝庫といって間違いない。昭和31年、聖徳太子にちなんで太子町と名付けられた。
このお寺は、門前に駐車場があって、無料で止められる。南大門をくぐり、足を運べば広い境内が広がる。一面に砂利の敷かれた境内は掃き清められて、すがすがしい。量感のある金堂と、その向かいに建つ多宝塔がいい感じを出している。二天門をくぐって一段上にある境内はがらっと変わって、古色が漂う。浄土堂はほどよく古びて好きなタイプだ。
浄土堂の脇に鎮座する、聖徳太子らの墓所とされる叡福寺北古墳は、宮内庁により天皇家の陵墓に指定(磯長陵)されている。
お寺について(ホームページなどで得た情報です)
このお寺は戦後単立寺院となったが、もとは真言宗金剛峰寺の末寺で、所在地であるかつての地名に因んで石川寺、磯長寺などと称されていた。また、聖徳太子の磯長(しなが)墓を祭祀守護する性格の寺院であることから太子寺、御廟寺、聖霊院の号もあり、四天王寺、法隆寺とならんで太子信仰の中核をなした寺院である 。
寺伝によると推古天皇三十年(622)聖徳太子の陵墓を守護し永く追福を営むために一堂を構えたのが当寺の始まりで、神亀元年(724)聖武天皇の勅願によって創建されたといわれる。
現在の伽藍は、天正二年(1574)信長の兵火で焼失したあと再建されたものである。
○聖霊殿(重文) 豊臣秀頼が慶長八年(1603)再建した
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南大門 2007/08/04 |
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金堂 2007/08/04 |
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多宝塔 2007/08/04 |
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二天門 2007/08/04 |
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聖徳太子御廟 2007/08/04 |
2010.05.06 見寺録-永泉寺
永泉寺(えいせんじ) 曹洞宗 石動山 開基:行基
岐阜県多治見市池田町7-3
土岐三十三霊場24番札所
多治見市は愛知県と接し、名古屋中心部まで電車で30分という利便性から、名古屋のベッドタウンとして栄える。また、志野焼、織部焼など美濃焼の産地として知られる。
永泉寺は中央道多治見インターを下りて国道19号線に出て、春日井市の方向へ 5キロほど行った所にある。幹線道路脇によく見られる、商業施設が連なる中にこのお寺は建っている。
市が建てた案内板には、文化財が多く伝承されているようだが、一般参拝者に寺宝を公開することは行っていないようで、残念だった。境内はさほど広くはないが、銀杏の大木と、ぎんなんの強烈な臭いが印象に残る。
お寺について(ホームページなどで得た情報です)
この寺は鎌倉時代に行基を開基とし、奈良時代の皇后、光明子の発願により建立された池田五山のうち、蓮華院を江戸時代に移して造られた。池田五山は、地蔵院を寺長として蓮華院、仏光院、明円寺、観音院からなり、東美濃地方における華厳宗の一大道場として繁栄したが、徐々に衰退し、鎌倉時代以降は真言宗に 改宗された。その後、曹洞宗に改宗されたこのお寺だけが残り、かつての池田五山の仏像の多くが受け継がれている。
○聖観世音菩薩立像(重文)
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山門 2009/10/18 |
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本堂 2009/10/18 |
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境内堂宇2009/10/18 |
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2009/10/18 |
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大銀杏 2009/10/18 |
2010.04.28 見寺録-栄山寺
栄山寺(えいざんじ) 真言宗豊山派 学晶山 開基:武知麻呂
奈良県五條市小島503
奈良県五條市は、平成17年に西吉野村と大塔村が編入され面積は格段に広くなった。吉野川沿いの旧五條市に人口が集中しており、旧西吉野、大塔へと山間部に分け入ると青々とした山並みが幾重にも重なっていて、集落はまばらだ。
その先には、日本有数の秘境といわれる十津川村があり、更にその先には三重県新宮市となって太平洋に行き着く。この紀伊半島を南北に貫く北の拠点が、五條市にあたる。かつては、五新線という五條市と新宮市を鉄道で結ぶ計画があり、五條市辺りでは工事も進められた。今はそれが廃墟のようになって、異景を見せているところもある。歴史では天誅組で知られ、明治維新には重要な位置を占めた。
栄山寺は市街地から離れ、吉野川沿いに立っている。河原が狭まって、渓谷のような姿を見せる所にあって、寺域も川に沿って細長い。駐車場には2、3台しか止められない。このお寺には2回訪れたが、いつも拝観受付に人がいなかった。どうしようかときょろきょろしていると、しばらくして畑の方から野良着姿の人が現れて対応していただいた。そして直ぐ元の所に戻られた。
境内は里山の集落に迷い込んだような感じで、のどかな空間が広がる。数々の寺宝に出合うのにも、遮るものがほとんどない。普段の参拝者が少ないだろうとは想像するが、仮にも重文7件中、国宝2件を有するお寺で、この対応のユルさにはビックリさせられた。「あなたを信じてますよ」と言われてみたいで、愉快だった。
八角円堂はその姿がたまらなくいい。良くできてるなー。かっこいいなー、としみじみ思う。堂内へも自由に入れる。柱や天上に施された彩色画の剥落や、色あせが甚だしいのに加え、仏像の傷みは目を覆うばかり。文化財保存という観念がここは少し違っているようだ。人が触れないよう管理を行き届かせ、暗い堂内で目を凝らせて見るのが好いか、開けっぴろげの明るい堂内で風化して朽ちていくのを見るのが好いか。後者の方が自然でこのお寺の姿勢が一貫しているということだろう。
参拝者を疑わないこのお寺の姿勢がいつまで続くのか・・。願わくばいつまでも続いて欲しい。
お寺について(ホームページなどで得た情報です)
古くは前山寺(さきやまでら)と呼ばれ、養老三年(719)藤原不比等の長子である藤原南家初代武知麻呂の開創による。その後、武智麻呂を祖とする藤原南家の菩提寺として鎌倉時代になるまで大いに栄えた。南北朝時代には南朝の後村上・長慶・後亀山天皇の行在所が置かれていた。そのため「栄山寺行宮跡」として国の史跡に指定されている。
現存する八角堂は、藤原武智麻呂の没後、子の藤原仲麻呂が父の菩提を弔うために建立したと伝える。
◎八角円堂(国宝) 天平時代 城京および斑鳩以外の地区にある奈良時代建築として稀有のものであり、建立年次がほぼ特定できる点でも貴重な建築である。
◎梵鐘(国宝) 平安時代 平安三絶の鐘
○八角堂内陣装飾画 (重文) 奈良時代
○本堂(重文) 室町時代
○石灯籠(重文) 鎌倉時代
○薬師如来座像(重文) 室町時代
○石塔婆(重文) 奈良時代
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境内 2009/02/07 |
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本堂 2009/02/07 |
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八角円堂 2004/02/02 |
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八角円堂 2009/02/07 |
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梵鐘 2009/02/07 |
2010.04.23 見寺録-永源寺
「え」で始まるお寺の始まりです。
永源寺(えいげんじ) 臨済宗永源寺派 瑞石山 開基:寂室元光
滋賀県東近江市永源寺高野町41
神仏霊場巡拝の道第140番
http://eigenji-t.jp/
東近江市は平成の大合併で生まれた市で、7つの自治体が合体して誕生した。永源寺はかつての永源寺町にあった。
このお寺は、三重県との県境1000mの山々が連なる鈴鹿山脈の山麓にあり、名神高速道路八日市インターを下りて国道421号線を東へ約10km走ると永源寺にたどり着く。愛知川にかかる橋を渡って、門前の土産物屋の前に車を止めると駐車料金は取られないが、他の駐車場では500円ほど払う。
2000/09/03に永源寺を訪れた時、もらったパンフレットの紅葉が美しく、紅葉のピークと思われたその年の11月23日に、ふと確かめたくなって出かけてみた。ふと、軽い気持ちで出かけてみたものの、永源寺手前1500m位から車はぴたりと止まってしまい、思い出したようにちょっと動く、またちょっと動く。逃げ出したくなるような渋滞がそこにあるとは思ってもいなかった。40分ほど並んで車を停めると、そこには観光バスがずらりと並び、ここは知るひとぞ知る紅葉のメッカであることを始めて知った。11時というわりあい早い時間だったからこれくらいで済んだのであって、午後から出かけた人は6km近くの渋滞の中でもんもんとすることになる。
下の写真はその後の2008年のもので、紅葉の盛りを過ぎていたのか、駐車場が充実したのかわからないが渋滞はなかった。本堂まで緩やかな上りの参道が続く。参拝者は多いが、この辺りまでは紅葉を楽しめないほどではなかった。しかし、本堂前が広場から庭園風に改造されたことによってか、人の流れが滞って混雑はすごいことになっていた。
茅葺きの大屋根に圧倒されはするが、禅宗寺院独特の、ピリッとした空気は完全になくなっていた。写真撮影目当ての参拝者というより観光客が、我が物顔に振るまい人の流れを阻む。その人達がグループで行動したりしていると、いらだちさえ思える。ならば紅葉の時に行かねば好い。これが結論。
お寺について(ホームページなどで得た情報です)
南北朝時代の康安元年(1361)、近江国の領主佐々木氏頼が、この地に伽藍を建て、寂室元光禅師を迎えて開山し、瑞石山永源寺と号した。禅師の死後、応安二年(1369)後光厳天皇は禅師を追崇され円応禅師の称号をおくり、さらに昭和三年(1928)4月には正燈国師の称号をおくられている。
応仁の乱には、京都五山の名僧がこの地に難を避け修行し、“文教の地近江に移る”と言われるほど隆盛をきわめた。明応(1492)永禄(1563)とたび重なる兵火にかかり、本山をはじめ、山上の寺院悉く焼失した。寛永年間、後水尾天皇の帰依を受け再興された。
明治以来、臨済宗永源寺派の本山となり、百数十の末寺を統轄し、座禅研讃、天下太平、万民安穏を祈る道場となっている。
○絹本着色地蔵十王像(重文)
○絹本着色約翁徳倹像(重文)
○塑造寂室和尚坐像(重文)
○寂室元光墨蹟(風攪飛泉詩)(重文)
その他重文多数。
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愛知川から永源寺方向を望む 2008/11/29 |
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山門 2008/11/29 |
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2008/11/29 |
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本堂 2008/11/29 |
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境内 2008/11/29 |
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