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【オリジナルマット工房】スタッフブログ

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2010.04.28  見寺録-栄山寺

栄山寺(えいざんじ)  真言宗豊山派  学晶山  開基:武知麻呂
  奈良県五條市小島503

奈良県五條市は、平成17年に西吉野村と大塔村が編入され面積は格段に広くなった。吉野川沿いの旧五條市に人口が集中しており、旧西吉野、大塔へと山間部に分け入ると青々とした山並みが幾重にも重なっていて、集落はまばらだ。
その先には、日本有数の秘境といわれる十津川村があり、更にその先には三重県新宮市となって太平洋に行き着く。この紀伊半島を南北に貫く北の拠点が、五條市にあたる。かつては、五新線という五條市と新宮市を鉄道で結ぶ計画があり、五條市辺りでは工事も進められた。今はそれが廃墟のようになって、異景を見せているところもある。歴史では天誅組で知られ、明治維新には重要な位置を占めた。

栄山寺は市街地から離れ、吉野川沿いに立っている。河原が狭まって、渓谷のような姿を見せる所にあって、寺域も川に沿って細長い。駐車場には2、3台しか止められない。このお寺には2回訪れたが、いつも拝観受付に人がいなかった。どうしようかときょろきょろしていると、しばらくして畑の方から野良着姿の人が現れて対応していただいた。そして直ぐ元の所に戻られた。

境内は里山の集落に迷い込んだような感じで、のどかな空間が広がる。数々の寺宝に出合うのにも、遮るものがほとんどない。普段の参拝者が少ないだろうとは想像するが、仮にも重文7件中、国宝2件を有するお寺で、この対応のユルさにはビックリさせられた。「あなたを信じてますよ」と言われてみたいで、愉快だった。

八角円堂はその姿がたまらなくいい。良くできてるなー。かっこいいなー、としみじみ思う。堂内へも自由に入れる。柱や天上に施された彩色画の剥落や、色あせが甚だしいのに加え、仏像の傷みは目を覆うばかり。文化財保存という観念がここは少し違っているようだ。人が触れないよう管理を行き届かせ、暗い堂内で目を凝らせて見るのが好いか、開けっぴろげの明るい堂内で風化して朽ちていくのを見るのが好いか。後者の方が自然でこのお寺の姿勢が一貫しているということだろう。

参拝者を疑わないこのお寺の姿勢がいつまで続くのか・・。願わくばいつまでも続いて欲しい。

お寺について(ホームページなどで得た情報です)
 古くは前山寺(さきやまでら)と呼ばれ、養老三年(719)藤原不比等の長子である藤原南家初代武知麻呂の開創による。その後、武智麻呂を祖とする藤原南家の菩提寺として鎌倉時代になるまで大いに栄えた。南北朝時代には南朝の後村上・長慶・後亀山天皇の行在所が置かれていた。そのため「栄山寺行宮跡」として国の史跡に指定されている。
 現存する八角堂は、藤原武智麻呂の没後、子の藤原仲麻呂が父の菩提を弔うために建立したと伝える。

◎八角円堂(国宝) 天平時代 城京および斑鳩以外の地区にある奈良時代建築として稀有のものであり、建立年次がほぼ特定できる点でも貴重な建築である。
◎梵鐘(国宝) 平安時代 平安三絶の鐘
○八角堂内陣装飾画 (重文) 奈良時代
○本堂(重文) 室町時代
○石灯籠(重文) 鎌倉時代
○薬師如来座像(重文) 室町時代
○石塔婆(重文) 奈良時代

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境内 2009/02/07

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本堂 2009/02/07

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八角円堂 2004/02/02

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八角円堂 2009/02/07

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梵鐘 2009/02/07

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2010.04.23  見寺録-永源寺

「え」で始まるお寺の始まりです。

永源寺(えいげんじ)  臨済宗永源寺派  瑞石山  開基:寂室元光
  滋賀県東近江市永源寺高野町41

神仏霊場巡拝の道第140番

http://eigenji-t.jp/

東近江市は平成の大合併で生まれた市で、7つの自治体が合体して誕生した。永源寺はかつての永源寺町にあった。

このお寺は、三重県との県境1000mの山々が連なる鈴鹿山脈の山麓にあり、名神高速道路八日市インターを下りて国道421号線を東へ約10km走ると永源寺にたどり着く。愛知川にかかる橋を渡って、門前の土産物屋の前に車を止めると駐車料金は取られないが、他の駐車場では500円ほど払う。

2000/09/03に永源寺を訪れた時、もらったパンフレットの紅葉が美しく、紅葉のピークと思われたその年の11月23日に、ふと確かめたくなって出かけてみた。ふと、軽い気持ちで出かけてみたものの、永源寺手前1500m位から車はぴたりと止まってしまい、思い出したようにちょっと動く、またちょっと動く。逃げ出したくなるような渋滞がそこにあるとは思ってもいなかった。40分ほど並んで車を停めると、そこには観光バスがずらりと並び、ここは知るひとぞ知る紅葉のメッカであることを始めて知った。11時というわりあい早い時間だったからこれくらいで済んだのであって、午後から出かけた人は6km近くの渋滞の中でもんもんとすることになる。 

下の写真はその後の2008年のもので、紅葉の盛りを過ぎていたのか、駐車場が充実したのかわからないが渋滞はなかった。本堂まで緩やかな上りの参道が続く。参拝者は多いが、この辺りまでは紅葉を楽しめないほどではなかった。しかし、本堂前が広場から庭園風に改造されたことによってか、人の流れが滞って混雑はすごいことになっていた。

茅葺きの大屋根に圧倒されはするが、禅宗寺院独特の、ピリッとした空気は完全になくなっていた。写真撮影目当ての参拝者というより観光客が、我が物顔に振るまい人の流れを阻む。その人達がグループで行動したりしていると、いらだちさえ思える。ならば紅葉の時に行かねば好い。これが結論。

お寺について(ホームページなどで得た情報です)
 南北朝時代の康安元年(1361)、近江国の領主佐々木氏頼が、この地に伽藍を建て、寂室元光禅師を迎えて開山し、瑞石山永源寺と号した。禅師の死後、応安二年(1369)後光厳天皇は禅師を追崇され円応禅師の称号をおくり、さらに昭和三年(1928)4月には正燈国師の称号をおくられている。
 応仁の乱には、京都五山の名僧がこの地に難を避け修行し、“文教の地近江に移る”と言われるほど隆盛をきわめた。明応(1492)永禄(1563)とたび重なる兵火にかかり、本山をはじめ、山上の寺院悉く焼失した。寛永年間、後水尾天皇の帰依を受け再興された。
 明治以来、臨済宗永源寺派の本山となり、百数十の末寺を統轄し、座禅研讃、天下太平、万民安穏を祈る道場となっている。

○絹本着色地蔵十王像(重文)
○絹本着色約翁徳倹像(重文)
○塑造寂室和尚坐像(重文)
○寂室元光墨蹟(風攪飛泉詩)(重文)
 その他重文多数。

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 愛知川から永源寺方向を望む 2008/11/29

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 山門 2008/11/29

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  2008/11/29

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 本堂 2008/11/29

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 境内 2008/11/29

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2010.04.21  見寺録-雲龍寺

「う」で始まるお寺はひとつだけです。

雲龍寺(うんりゅうじ)  曹洞宗  高源山  開基:良源
兵庫県三木市上ノ丸9-4

見寺録で紹介するお寺の「い」が終わって、次を考えた時「う」で始まる寺がなかった。「う」の寺がないのは、絶対数も少ないであろうから、「う」をとばしても良かったのだが、三木市に雲龍寺があったなあと思いだし、急遽、このお寺に行くことに決めた。

三木市は東播磨地方に位置し、神戸市の北に接している。人口は約82,000人。金物の町。なだらかな丘陵地が広がり、ゴルフ場やニュータウンが多く開発されている。美嚢川という大きな川が旧市街の中心を流れ、明るくのびのびした景観がある。肥沃で落ち着いた暮らしやすそうな印象を持った。

山陽自動車道、三木小野インターを下り、ナビに従って車を進めると旧市街に入り、細い枝道に案内された。門前まで車で来たが、止めるところがない。住宅地の狭い道をぐるっと回って引き返し、近くの図書館の駐車場に止めた。 同じ敷地にある堀光美術館には参拝の後訪れた。

歩いていくと左手からアプローチすることになり、白い漆喰の土塀が見えてきて美しい。門前に来ると葉桜になりかけた桜が迎えてくれる。観光客を招いたり、寺宝拝観は行っていないようで、静まりかえった境内があった。鐘楼など近年改築された所もあって、時運は栄えているようだった。さて、別所長政の首塚という案内標識に従って行ってみると、そこには広くてとても立派な駐車場があって驚いた。ナビに多くを期待してはいけないが、ここに案内してほしかった・・・。

戦国大名別所長政は、夫人と共にこの地に眠る。

お寺について(ホームページなどで得た情報です)
 天徳二年(957)天台宗の僧良源によって創建されたという。その後、平安時代後期の保元年間に兵火にあって荒廃したが、鎌倉時代後期に赤松氏によって復興され、元亨二年(1322)には後醍醐天皇により現在の山号に改められた。室町時代には別所氏の帰依を得た。天正六年(1578)豊臣秀吉による兵火により焼失したが、秀吉から寺領を安堵されている。
 秀吉による、2年間も及ぶ兵糧攻めで敗れた三木城主別所長治の首塚がある。別所長治の首は京都に送られたが、当寺住職が貰い受けて持ち帰り、首塚として手厚く葬ったと伝えられる。

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山門 2010/04/18

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本堂 2010/04/18

 
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庫裏 2010/04/18

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境内 2010/04/18

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別所長治の首塚 2010/04/18

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2010.04.15  見寺録-岩湧寺

「い」で始まるお寺は一応これでおしまいです。12ヵ寺ありました。

岩湧寺(いわわきじ)  融通念仏宗  湧出山  開基:役行者
大阪府河内長野市加賀田町3824

河内長野市は、高野街道が通り、古くから交通の要衝として栄えた。古社寺も多く残り、国の重文指定の有形文化財は83件あって、全国で12番目だそうだ。大阪府では大阪市に次いで多い。

このお寺へは、市の中心から南の方向にある青葉台という新興住宅地を抜け、渓谷の中の細い道を進んでいく。途中、小さな駐車場が点在し、何処も車で一杯だったが、かなり登ったところで空いている所を見つけられた。全くの予備知識無しで来たので、この車の多さは驚いた。後で調べると岩湧山へのハイキングの出発点になっているようだった。

本堂は江戸時代初期に建立されたという。銅板葺の方形造りの屋根を持つ本堂と多宝塔は、大きさがこの狭い境内にちょうど良い具合に配置されているように思われた。庫裏に人の気配もなく、堂内の拝観など望むべきもなかった。

境内に群生する秋海棠(シュウカイドウ)は、ベゴニアの仲間で、江戸時代初期に日本に持ち込まれた帰化植物。とは後で調べてわかったが、初めて見る美しい花だった。文人に好まれ、芭蕉も句を残している。

お寺について(ホームページなどで得た情報です)
 役行者が開祖で、創建は大宝年間(701~703)とされる。文武天皇の勅願寺であったと伝えられる。桃山時代は豊臣氏の庇護を受けた。初めは天台宗であったが、明治に融通念仏宗に帰依し現在に至る。

○多宝塔(重文) 16世紀
○本尊大日如来坐像(重文) 平安時代後期

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山門 2006/09/03

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本堂 2006/09/03

 
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多宝塔 2006/09/03

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多宝塔 2006/09/03

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境内に咲く秋海棠(シュウカイドウ) 2006/09/03

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2010.04.14  見寺録-岩間寺

「い」-も残すところあと2ヵ寺になりました。

岩間寺(正法寺)(いわまでら(しょうほうじ))  真言宗醍醐派  岩間山 開基:泰澄
滋賀県大津市石山内畑町82

http://www.iwama-dera.or.jp/

西国三十三箇所12番札所   ぼけ封じ観音4番

このお寺は、京都府宇治市との府県境にあって、石山寺からも近い。道標にしたがって県道を離れると、山道に入り、くねくねと登って行く。車止めのある脇に駐車場があった。山門はない。アスファルトの道を歩いていくと、ホテルのような建物がドーンとあって、なんでこんな山奥に?と思わずにいられない。首を傾げて近づくと、岩間寺信徒会館とあった。それほどの大寺には見受けられないのに、信者さんの数も力もすごいことになっているんだろう。

本堂は安土桃山時代に再建されたという。不動堂は平成五年に立て替えられ、総じて伽藍は新しいもののようだ。 本堂前には、銀杏の大木がそびえ立っている。本尊のご開帳が、花山法皇一千年御忌を記念して、平成22年4月17日~5月17日にあるという。前回は昨年19年ぶりに行われたが、その前は平成2年で365年ぶりであったらしい。次はいつか予定はないという。これを見逃したらまずチャンスはないだろう。

お寺について(ホームページなどで得た情報です)
 開祖泰澄(タイチョウ)は「越(コシ)の大徳」といわれ、加賀の白山を開いた後、岩間山に来て桂の木で千手観音像を彫り、胎内に念持仏の金銅千手観音像を納めて本尊とし一寺を建立した。これが当寺の始まりとされる。又、大宝二年(702)泰澄は鎮護国家の法師に勅任され、元正天皇の平癒を祈願した功により、養老六年(722)勅命を受けて、岩間山を行脚中桂の大樹より千手観音が現れ啓示を受けて、当山を創建したと伝える。平安期には山岳信仰の霊場であったが、やがて衰退して醍醐寺の末寺となったが、天正五年(1577)正親町(オオギマチ)天皇が再興したという。
 雷除観音のいわれは、泰澄大師が雨乞いの祈願を行っていた際、何度も寺が落雷に見舞われ堂塔が焼けてしまった。泰澄は雷を鎮めるため、地上に落ちてきた雷を宝刀で止めて、迷惑をかけてきたことを反省させ、水の乏しい岩間山に水を出させると約束させた。これが「雷神爪堀の霊泉」と呼ばれるようになった。

○木造地蔵菩薩立像(重文) 平安時代後期
○木造不動明王二童子立像3躯(重文) 鎌倉時代

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境内 2005/08/29

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本堂 2005/08/29

 
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本堂 2005/08/29

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本堂と雷神霊泉 2005/08/29

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境内から南方向 2005/08/29

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