【オリジナルマット工房】スタッフブログ
2010.04.13 見寺録-今熊野観音寺
今熊野観音寺(いまくまのかんのんじ) 真言宗泉涌寺派 新那智山 開基:空海
京都市東山区泉涌寺山内町32
http://www.kannon.jp/
西国三十三箇所15番札所 ぼけ封じ・近畿十楽観音霊場第1番
洛陽三十三所観音霊場の第19番 神仏霊場巡拝の道第122番
京都市を南北に走る通りの一番東の通り、東大路通りがカーブして東西に走る九条通に変わる辺りに泉湧寺交差点がある。そこを山手の方向に進んで、どん付きに泉湧寺の駐車場がある。このお寺には泉湧寺境内を通って行った。
この辺りには、街の喧騒は全く及ばない。参拝者もさほど多くはないので、広い境内には閑散とした印象さえ覚える。奥には陵(みささぎ)が点在し、森と一体になって静粛な空間を作っている。鳥のさえずりを聞いているいると、混雑した京都の街が嘘のようだ。
お寺について(ホームページなどで得た情報です)
大同二年(807)弘法大師が唐の国で真言密教を学んで帰国した翌年、熊野権現のご霊示を受けて この地に庵をむすんだのが始まりと伝える。弘仁三 年(812)大師は嵯峨天皇から官財を賜わり、勅 旨を奉じて諸堂を造営する。さらに左大臣藤原緒嗣 の発願によって広大な寺域に伽藍の造営が図られた。
白河法皇(1053-1129)のころには、すでにこの地は熊野修験の中心地であり、この京都の今熊野権現とその本地仏とに対する信仰は、九州の宇佐信仰の習合した山岳仏教、九州豊後の国の国東半島を中心とする一帯に平安後期からおこった今熊野権現とその本地仏を信仰する修験に大きな影響を 及ぼした。
東山七条の東の峰を阿弥陀が峰といい、その峰の南西一帯を鳥戸野(とりべの)と呼び、皇族貴族の葬儀や法要がこの地で行われた。平安時代中期以来綿々として皇族方の葬送の場となり、鳥戸野の管掌寺院として皇室との御縁をつなぎ、歴朝の崇敬を得て栄えた。
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鳥居橋 2006/04/29 |
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子護大師像 2006/04/29 |
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本堂 2006/04/29 |
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医聖堂 2006/04/29 |
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医聖堂(多宝塔) 2006/04/29 |
2010.04.12 見寺録-一休寺
一休寺(酬恩庵)(いっきゅうじ(しゅうおんあん)) 臨済宗大徳寺派 霊瑞山 開基:大應
京都府京田辺市薪里ノ内102
http://www.ikkyuji.org/
京田辺市は、京都、大阪、奈良のベッドタウンとしての性格と、近年同志社大学の田辺キャンパスが出来、京阪奈学研都市の新しい街が出来たことにより、隣接の街を含め、開発著しい地区として印象に残る。それらの施設や町並みは、多く丘陵地帯を開発したのだろう、造成されたまま建物が建っていない所などは、殺風景な印象もある。
このお寺を訪れた頃は、幹線道路が整備されていなくて、細い枝道を辿って行った。駐車場は十分広く、有名寺院であるのだろう。総門からまっすぐに伸びた参道は、受付から直角に右に折れて本堂まで続く。この間の風情がたまらなくいい。道は適度に細く、樹木が頭上を被い、石畳脇は苔むしてしっとりとしている。その樹木の多くは楓だ。紅葉すればどうなるか、想像に難くない。
庭園も見事である、臨済宗の寺院は総じて庭園というものに力と神経を注いでいるように見受けられる。同じ禅宗でも、曹洞宗や黄檗宗ではそういう印象を持つことはない。もちろん他の宗派で立派な庭園を持っているところも数多いが、臨済宗の寺院は飛び抜けている。
そういった佇まいにも神経を使う寺院でありながら、ここは一休さんで少し肩の力が抜ける。その一例は庫裏にある一休さんのアニメ。極めつけは、開山堂の奥の溝に架かるほんの小さな石橋に、“このはし渡るべからず”と書いてあったこと。そこへ通りかかったご婦人のグループが、「ここ渡ったらあかんねんてぇー」と、いいながら引き返したのを見てしまった時、脱力感は言い様のないほど私を襲った。 このとんち話を知らないとは・・・・。
お寺について(ホームページなどで得た情報です)
元の名は妙勝寺といい、鎌倉時代、臨済宗の高僧大應国師(ダイオウコクシ)が中国で禅を学び、帰朝後禅の道場をここに建てたのが始まりである。その後、元弘の戦火にかかり復興もならずにいたものを、六代一休禅が康生年中(1455~6)宗祖の遺風を募って堂宇を再興し、師恩に報いる意味で、「酬恩庵」と命名した。禅師はここで後半の生涯を送り81歳で大徳寺住職となったときもこの寺から通ったのであり、文明一三年(1481)88歳の高齢を以て当寺において示寂され遺骨は当所に葬られた。禅師が晩年を過ごしたことにより、「一休寺」の通称で知られるに至った。
○本堂(重文) 永享年間(1429~40) 入母屋造り檜皮葺
○方丈(重文) 慶安三年(1650)
○庫裏 (重文)
○東司(重文)
○浴室 (重文)
○木造一休和尚坐像 (重文) 文明十三年(1481) その他重文あり
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総門 2003/05/25 |
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参道 2004/11/28 |
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庫裏 2003/05/25 |
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庭園 2003/05/25 |
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本堂 2004/11/28 |
2010.04.05 見寺録-一乗寺
一乗寺(いちじょうじ) 天台宗 法華山 開基:法道
兵庫県加西市坂本町821-17
西国三十三箇所26番札所 播磨西国三十三箇所33番
神仏霊場巡拝の道第77番
加西市に限らず、播磨地方は関西の中でゴルフ場が飛び抜けて多い。これは平地と丘のような小山が連なる、地形が影響しているように思う。少々ほこりっぽいが、明るい土地というイメージを持っている。
山道に入って、少し行くとお寺の広い駐車場がある。道を渡って道路脇の広場から境内が始まる。山門はないようだ。 まっすぐ延びる長い石段が印象的。登り切ると本堂にたどり着くが、あいにく解体工事中で、その姿を見ることは出来なかった。残念至極。よって本堂の写真がない。
石段脇の狭い領域に、ひな壇に建つように堂宇が並んでいておもしろい。三重塔は三人官女か。華があって気品がある。
開基の法道仙人は伝説上の人物らしいが、兵庫県南部を中心に、多くの寺院で開基に名を残す。この先いくつ出てくるだろうか。
お寺について(ホームページなどで得た情報です)
百雉元年(650)インドの高僧法道仙人が孝徳天皇の勅願で創建したといわれる。孝徳天皇の病を仙人が、加持祈祷して瞬く間に平癒した。喜ばれた天皇は仙人に建立を命じたという。落慶法要には天皇も行幸され、一乗寺の額を授け、聖観音像を安置して本尊にした。
行基、空海なども訪れており、また、後醍醐天皇の勅命で大講堂が建てられるなどして隆盛を極めたが、度重なる火災に遭い多くの堂宇を失う。しかしその都度再建され今日に至る。
◎三重塔(国宝) 承安元年(1171) 平安時代末期
◎聖徳太子及天台高僧画像拾幅(国宝) 東京、奈良国立博物館等出品
○本堂(重文) 江戸時代(1628) 平成十九年まで解体工事中
○石造五輪塔(重文) 鎌倉時代
○銅造観音菩薩立像 2躯(重文) 秘仏本尊像とその前立ち像
その他重文多数
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門前 2005/11/05 |
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参道 2005/11/05 |
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境内 2005/11/05 |
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三重塔 2005/11/05 |
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常行堂 2005/11/05 |
2010.04.03 見寺録-石山寺
石山寺(いしやまでら) 真言宗東寺派 石光山 開基:良弁
滋賀県大津市石山寺1-1-1
西国三十三箇所13番札所 江州三十三観音1番
近江三十三観音3番 神仏霊場巡拝の道第146番
http://www.ishiyamadera.or.jp/
このお寺は、琵琶湖から流れ出る唯一の川、瀬田川の西にある。観音霊場の有名寺院で、多数の参拝客に対応できるように、お寺の回り全体が整備されている。寺院参拝の他に、紫式部、源氏物語など、古典文学の聖地でもあるんだろうか、学生のゼミ風のグループを見かけた。
すぐ近くに瀬田川が流れ、西に開けた低地から緩やかに丘に上るように境内が広がる。大門は正面に開けた空間が広いので、存在感が一際だ。本来の大きさより余計に大きく感じる。広く長い参道は本堂などの堂宇へ誘うイントロとして申し分ない。伽藍のほとんどは参道の右側にあって、参道を折れると、石段の上にあるのが本堂だ。傾斜地に無理やり建てたような造りで、清水寺などと同じ、床を長い木組みで支える懸造(かけづくり)になっている。このお堂回りにはスペースがないので、全体を見渡せなかった。
本堂から更に登っていくと、我が国最古といわれる多宝塔の鎮座する広場に出る。その奥には月見亭があって、ここから眼下に見る瀬田川が印象に残った。
お寺について(ホームページなどで得た情報です)
聖武天皇が奈良東大寺大仏造立の際、黄金がないのを憂いて良弁を吉野の金峯山に祈らせたところ、金剛蔵王の夢告があり、瀬田の霊山で祈願せよと教示された。良弁は瀬田で老人と出会い、石山のあたりに観音を祀るようにいわれる。そこで如意輪観音を安置したところ、陸奥に金脈が発見され、朝廷に献上した。その後、この像を本尊に堂宇を建立したのが石山寺の起こりと伝える。
実際には、天平五年(761)東大寺の建築用資材の集積地として「石山院」という役所が置かれ、拡張改築の結果、有力諸大寺に肩を並べるにまでなった。
平安京遷都後は、歴代天皇や多くの貴族が参詣し、紫式部が「源氏物語」を綴り、「蜻蛉日記」「和泉式部日記」「枕草子」 「更科日記」などに石山寺の記述を見ることができる。
現在の本堂は永長元年(1096年)の再建。東大門、多宝塔は鎌倉時代初期、源頼朝の寄進により建てられたものとされ、この頃には現在見るような寺観が整ったと思われる。石山寺は兵火に遭わなかったため、建造物、仏像、経典、文書などの貴重な文化財を多数伝存している。
◎本堂(国宝) 慶長七年(1602) 如意輪観世音半跏像(重文)を安置する。
◎多宝塔(国宝) 鎌倉時代初期(1194) 日本最古
◎漢書 高帝紀下、列伝第四残巻(国宝)
◎史記 巻第九十六、九十七残巻(国宝)
○東大門(重文)
○木造如意輪観音半跏像(重文) 平安時代後期
秘仏で、33年に1度の開扉と、天皇即位時の開扉以外は公開されることがない。
○塑造金剛蔵王立像心木(重文)
◎その他国宝指定の書多数
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東大門 2005/08/27 |
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参道 2005/08/27 |
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本堂 2005/08/27 |
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珪灰石 (国の天然記念物) 2005/08/27 |
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多宝塔 2005/08/27 |
2010.03.31 見寺録-石薬師寺
石薬師寺(いしやくしじ) 真言宗東寺派 高富山 開基:泰澄
三重県鈴鹿市石薬師町1
西国薬師四十九霊場33番 三重四国八十八箇所番外
鈴鹿七福神「恵比寿」
三重県鈴鹿市は人口約20万人、鈴鹿サーキットで有名。本田技研工業が工場を置き、工業都市のイメージが濃い。市のホームページにはスペイン語とポルトガル語のページもあり、南米からの研修者や労働者が多いのではないかと思わせる。
このお寺は、国道1号線のすぐ近くにあるが、1号線がバイパスのように整備されているため、小さな枝道に入る交差点は少なく、このお寺へも大回りして行った。駐車場は4.5台程度が止められる空き地のような所。参道は短い。総門を入るとさほど広くはないが、よく整備された境内が広がる。灯籠や堂宇が所狭しと建っていて、ちょっと窮屈な感じがする。
秘仏の石薬師は見られなかったが、広重の浮世絵に描かれた石薬師寺を知ることが出来てよかった。
お寺について(ホームページなどで得た情報です)
神亀三年(726)泰澄大師が当地の森の中で一巨石の出現に出会い、薬師如来が衆生利益のため示現されたものと悟り、一草庵を設け恭敬供養なられた。これが当山の開創である。弘仁三年(812)弘法大師が自ら薬師如来を刻み、開眼供養をなされた。これにより人々の信仰は高まり、嵯峨天皇は勅願所とし、荘厳広大な大寺院を建立され、高富山西福寺瑠璃光院と号し四方崇敬の精舎と仰がれる程であった。
戦国の戦火のあと神戸城主一柳監物により、寛永六年(1629)再建された。建物の規模は桁行三間、梁間四間、寄棟造。本瓦葺きで一間の向拝がつく。市内で最古の寺院建築。
石仏は花崗岩で像高190cm。寺伝によれば、弘法大師が地面生え抜きの石に刻んだという。浅い線彫り、ほおはゆたかで、薬師仏として親しまれてきた。平素は秘仏であるが、十二月二十日の「おすす払い」には、洗い清められる。平安後期の作。
東海道五十三次の宿場の一つで、広重にも描かれる。国道一号線沿いのこぢんまりとした寺。
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総門 2009/03/07 |
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境内 2009/03/07 |
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本堂 2009/03/07 |
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境内 2009/03/07 |
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広重 東海道五十三次 2009/03/07 |
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