【オリジナルマット工房】スタッフブログ
2010.03.30 見寺録-石馬寺
石馬寺(いしばじ) 臨済宗妙心寺派 御都繖山 開基:聖徳太子
滋賀県東近江市五個荘石馬寺町823
湖国十一面観音第9番 近江湖東二十七名刹霊場第16番
役行者大菩薩霊場 聖徳太子霊跡
http://www.eonet.ne.jp/~ishibaji/
石塔寺と同じく、東近江市にある。このまちは平成の大合併で生まれた市で、7つの自治体が合体して誕生した。石馬寺はかつての五個荘町にあった。
このお寺は、近江平野に浮かぶ島のごとく、小高い山の中腹にある。この繖(きぬがさ)山と呼ばれる一帯は、平地に忽然と現れる山々が印象的で、そこには決まって古社寺が鎮座しているようだ。琵琶湖に流れ込む川が、土砂を運び、平地を造った。それが今の肥沃な近江平野になった。昔から暮らしやすい土地だっただろう。近くの山城、安土城跡もかつては三方を琵琶湖に囲まれ、防衛に適した所だったというが、今は真っ平らな平野に囲まれている。
このお寺には、いつものごとく車で行った。かつての山門跡に4、5台分しかない駐車スペースを発見し、運良く止められた。他にもあったかどうか、わからない。参道は、その山門跡から、長い石段が続く。自然石を敷き並べたような石段で、歩きにくいが、手すりが整備してあったのは親切だ。
参拝客は私一人だったけど、書院のインターホンを押して、参拝の旨を告げた。ご婦人が現れ、収蔵庫の鍵を開けて下さった。わざわざ私一人のために、手を休め、奥から出て来て・・・・。拝観料はもちろんお支払いしましたが、これはありがたいことです。ありがたい気持ちはこうやって覚えてる。
収蔵庫の中は所狭しと、古仏像が並ぶが、なんといっても印象に残ったのは、大威徳明王牛上像だ。三面六ぴの姿は異形。まさに異形。足まで六ぴはなかなか見られない造形だ。感動しました。
お寺について(ホームページなどで得た情報です)
繖(きぬがさ)山の山中にある石馬寺は、推古二年(594)徳太子がこの山麓に馬をつなぎ、山上に霊地を探して下山すると馬が石と化して池に沈んだ(現在の石段登り口に沈む駿馬化石)というところから寺号が付けられた。
永禄十一年(1568)信長が佐々木氏を攻めた時、戦禍を受け悉く灰燼に帰す。その後、慶長八年、徳川氏が復興した。
創建以後、法相宗、天台宗と転宗し、正保元年(1644)仙台瑞厳寺の開祖、雲居希贋国師を中興開山とし臨済宗となる。
○十一面観音菩薩立像<2躯>(重文) 平安時代
○二天王立像<4躯>(重文) 平安時代
○大威徳明王牛上像(重文) 平安時代
○阿弥陀如来坐像(重文) 平安時代
○役行者像・前鬼・後鬼像<3躯>(重文) 鎌倉時代
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大門跡 2006/10/22 |
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参道 2006/10/22 |
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参道 2006/10/22 |
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本堂 2006/10/22 |
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書院と庭 2006/10/22 |
2010.03.26 見寺録-石塔寺
石塔寺(いしどうじ) 天台宗 阿育王山 開基:聖徳太子
滋賀県東近江市石塔町860
近江西国三十三箇所22番
蒲生三十三観音27番(観音堂)・28番(石塔寺)
東近江市は平成の大合併で生まれた市で、7つの自治体が合体して誕生した。石塔寺はかつての蒲生町にあった。滋賀県南部、西部地方は朝鮮半島系、特に百済系渡来人の遺構が数多く残っていて、石塔寺もその中のひとつ。
このお寺は、名神高速道路八日市インターを下りて車で約10分、名神八日市カントリークラブを横切ってすぐのところにある。ここには3回訪れている。最初に訪れた1999年12月、大阪は冬晴れで、申し分のない天気に勇んで石塔時を目指したものの、湖東地方は時雨れていた。拝観料を払うときおばさんに聞いてみると、冬の湖東は琵琶湖と鈴鹿山脈の影響で日本海側の気候に近いとのことであった。
ここは参道から一見したところ、右手にある本堂以外目立った堂宇がない。参道からまっすぐ伸びる石段が美しい。拝観料を払って、さて本堂へ先に参拝するか、目の前の長く急な石段を上ろうかと一瞬迷うが、いつも足は自然と石段に向かう。息が上がるのを我慢して上りきったところに開ける空間は、そびえる三重の宝塔の周りに無数の石仏石塔が配置されている異様な風景で、形容しがたい感動がある。歴史的価値のある阿育王塔もさることながら、無数にある石仏石塔群には本当に圧倒される。右手になだらかに下る斜面にも途切れることなく続いている。辺りの松林を一周する小道の脇にも石仏が連なっている。
化野念仏寺でも感じたことだが、どれほどの人が何に対して石を刻むのか。死への恐れか憧れか。人の情念とは信仰とは何だろう。それがここでは量として、数として感じることができる。
お寺について(ホームページなどで得た情報です)
聖徳太子が近江の国に四十八箇寺の伽藍を建立した際、当寺を本願成就寺と名付けたが、400年後、寛弘三年(1006)飛鳥時代より埋没していた仏舎利を納めた阿育王(アショカオウ)塔が発掘されると、新たに七道伽藍を建て改め、石塔寺と称した。
石塔は、実際には奈良時代前期(7世紀)頃に、朝鮮半島系の渡来人によって建立されたとみるのが通説である。この石塔は、日本各地にある中世以前の石塔とは全く異なった様式をもつものであり、朝鮮半島の古代の石造物に類似している。湖東地区が渡来人と関係の深い土地であることは、『日本書紀』に天智天皇八年(669)、百済(当時すでに滅亡していた)からの渡来人700名余を近江国蒲生野(滋賀県蒲生郡あたり)へ移住させた旨の記述があることからも裏付けられ、石塔寺の三重石塔も百済系の渡来人によって建立されたものであるとの見方が一般的である。
鎌倉時代には、三重石塔(伝・阿育王塔)の周りの境内に、五輪塔や石仏が多数奉納されるなど、以後、多くの人々の信仰を集め、石塔石仏を奉納されるようになる。時を重ねて無数の数(四万八千)になるが、現在の整然たる姿は昭和になってからである。
○阿育王塔(重文) 飛鳥時代
○石造宝塔(重文) 正安四年(1302)
○石造五輪塔2基(重文) 嘉元二年(1304)および貞和五年(1349)
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参道 2008/11/29 |
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山門 2008/11/29 |
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本堂 2002/08/31 |
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阿育王塔 2008/11/29 |
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石塔、石仏 2008/11/29 |
2010.03.25 お知らせ
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2010.03.25 見寺録-石観世音
石観世音(いしかんぜおん) 曹洞宗 大悲山 開基:空海
福井県三方上中郡若狭町三方22-1
北陸三十三観音霊場7番札所
福井県若桜町は若狭湾の中程に位置し、三方五湖の景勝地が有名。小学生の頃、一度いったことがあって、レインボーラインからの絶景が記憶に残っている。2005年ラムサール条約に登録された。淡水湖から汽水湖、海水湖まで5つの湖にはそれぞれはっきりとした特徴があるという。
このお寺は三方五湖の東南に位置し、国道27号線から東に入る細道を上ると参道に出会う。右手に空き地があって、そこの車を止めた。本堂まで行ってわかったことだが、本来の駐車場は本堂脇にあった。でもここに車を止めると、参道部分を味わうことが出来ない。空き地に止めて正解だった。
参道は石段と石畳の道が段々と続く。少し神社のような雰囲気。禅宗の寺院とは思えないほど、民間信仰が色濃く、 祈願奉納の参拝者が絶えないようだった。特に、御手足堂に奉納された手形、足形は圧倒される量で、お寺が奉納用に用意するものから、オリジナルなもの、はてはギブスまで様々だ。何十年も経ったような古いものもある。手足に病のある人々の、苦しみから逃れたい思いや願いが一つひとつに込められている。それがここに集中していて息をのんでしまう。それどころか息苦しささえ覚る。写真を撮るのは憚られた。
お寺について(ホームページなどで得た情報です)
創建は延暦年間と伝える。本尊は弘法大師が一晩のうちに作り上げたといわれる観世音菩薩像。この観音像には右手がなく、弘法大師が、朝を告げる鶏の声を聞いて右手だけを刻み残して去ったともいわれている。手足の病気やケガにご利益があると信じられ、年間を通して約10万人の参拝者が訪れる。この片手観音は33年に一度開帳され、ふだんでは見ることが出来ない秘仏として大切に安置されている。
現在の本堂は明治32年に再建されたものである。
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参道 2008/01/06 |
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参道 2008/01/06 |
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参道 2008/01/06 |
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本堂 2008/01/06 |
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境内 2007/11/24 |
2010.03.24 見寺録-斑鳩寺
斑鳩寺(いかるがでら) 天台宗 開基:聖徳太子
兵庫県揖保郡太子町鵤709
新西国三十三箇所32番札所 西国薬師四十九霊場23番
播州薬師霊場18番 聖徳太子霊跡28番
ここ太子町は、町名が示すように聖徳太子と縁が深く、斑鳩寺にいたっては、決定的に法隆寺と深淵のつながりを示している。私の住む八尾市には、中の太子といわれる大聖勝軍寺とうお寺があって、太子信仰で知られているが、この斑鳩寺はその代表格だろう。
近年、聖徳太子は実在しなかったという説が、史実として確からしいという。信仰とどう関わってくるんだろう。
参道は現在はなかったように思う。仁王門には仁王像が安置されているが、その造形が独特である。頭と胴体のバランスがかつて見たどの仁王像とも違う。頭でっかちで、 胴の部分もたくましさに欠ける。一言で言えばリアリティーがない。筋肉の付き方など滑稽なほど稚拙。忘れられない仁王さんだ。
境内は適度に広く、三重塔が威厳を放つ。この三重塔はデカくて力強い。約25mもあるという。三重塔では薬師寺を除けば日本最大級か。
このお寺には他では見られないおもしろい建物がある。それが聖徳殿にくっつく奥殿だ。この奥殿は大正五年(1916)に建てられ、法隆寺の八角円堂、夢殿を模していることは明白。無理矢理聖徳殿に合体させたようでおもしろい。内部は一般に公開されていないようだが、チャンスがあれば是非見てみたい。
お寺について(ホームページなどで得た情報です)
推古天皇十四年(606)、35歳の聖徳太子は天皇に請われ、三日間にわたり勝鬘経を講じたといわれている。天皇はその妙味に感動し、賞として聖徳太子に対し播磨国揖保郡の土地360町歩を与えたという。
聖徳太子は当時住んでいた大和国斑鳩宮からこの地に来て斑鳩莊と名付け、伽藍を建設したと伝えられており、これが、斑鳩寺の創始とされている。
かつては、七堂伽藍をならべた大寺で壮麗を極めていたが、天文十年(1541)に赤松・山名の争乱により尽く焼失した。その後、赤松氏などの発願で円勝寺の昌仙法印によって漸次再建された。 当寺は創建から約千年間は法隆寺の支院であったが、火災再建後は昌仙法印が天台宗の僧あったため、天台宗の寺院となる。
○三重塔(重文) 永禄八年(1565)
○釈迦如来坐像・薬師如来坐像・如意輪観音坐像(重文) 室町時代
○木造日光・月光菩薩立像 (重文)
○木造十二神将立像 8躯 (重文)
○紺紙金泥釈迦三尊十六羅漢像 5幅(重文)
○絹本著色聖徳太子勝鬘経講讃図 (重文)
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仁王門 2007/11/24 |
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仁王 2010/03/22 |
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本堂 2007/11/24 |
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三重塔 2007/11/24 |
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奥殿 2007/11/24 |
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